「キリストの福音宣言」
(ルカ福音書四章16~21節より)
江本真理牧師
+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。
先週(1月13日)の礼拝後にもたれた讃美の会で、「今日はこれを歌いましょう!」ということで、「新しい年を迎えて」という讃美歌のコピーが渡されました。コピーは「讃美歌21」からのものでしたが、この讃美歌はルーテル教会で編集している「教会讃美歌」にも収められていて、新年に歌われる讃美歌です。その一番の歌詞にこうあります。「新しい年を迎えて、新しい歌を歌おう。なきものをあるが如くに呼びたもう神をたたえて、新しい歌を歌おう」(教会讃美歌49番1節)。
この一番の歌詞の中で「なきものをあるが如くに呼びたもう神」ってどういうことですか、という質問がその場で出ました。「なきものをあるが如くに、呼びたもう神」、これはローマの信徒への手紙4章17節にあるみ言葉からとられています。新共同訳聖書では「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」と記されているみ言葉です。口語訳聖書では「死人を生かし、無から有を呼び出される神」。さらに文語訳聖書では「死人を活し、無きものを有るものの如く呼びたまふ神」となっています。この讃美歌の歌詞は、文語訳の言い回しからとられているようです。(文語訳では少しニュアンスが異なるように感じますが、)新共同訳や口語訳にあるように「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」、「無から有を呼び出される神」、その神さまをたたえる。天地創造の初めに「光あれ」とおっしゃって、混沌とした闇の中に「光」を呼び出され、天地をつくり、人間をつくり、命を与えられた、その御業を信じて、この神さまにあって生かされていく歩みをしていこうとの決意があらわされていると思います。
「存在していないものを呼び出して存在させる神」、「無から有を呼び出される神」。この神さまの御業のゆえに、私たちは明日への希望を抱いて歩み続けることができます。たとえ希望を見い出すことができない状況に置かれたとしてもなお、「無から有を呼び出される」この神さまのゆえに、私たちは明日への希望を抱いて今を生きるのです。このローマの信徒への手紙四章一七節のみ言葉はこう続いています。「存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を讃美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです」(ローマ4章17b~21節)と。
神は約束したことを実現させる力もお持ちの方である、との確信。神は約束してくださったことを必ず実現してくださる。このことへの信頼が、絶望の中に希望を見い出す基となる、絶望の中に確かな希望が立てられる礎となるのだということを示されます。だから「新しい歌を歌おう」。私たちは、たとえ行き詰まり、八方塞がりのような状況の中に置かれたとしてもなお、これまでの歩みの延長線上、これまでの出来事の積み重ねの先にではなく、「無から有を呼び出される神」のゆえに、その御業を信じて、新しい歌を、新たな希望を歌うことができる。明日への希望を抱いて今を生きることができるものであるのです。
1月12日(土)の夜に、北海道の道北地区で牧会しておられる同僚のY先生の一番下のお嬢さんが天に召されたとの知らせを受けました。突然の知らせに言葉を失いました。そのつい二、三日前に、少し遅れて届いたY先生からの年賀状には、先生の三人のお子さんが仲良く写っている写真がのっていました。昨年の三月に生まれて九カ月になる三女のお嬢さんが、二人のお姉さんに抱っこされて写っている、そんな写真でした。Y先生のご家族とは、福島におられたときに、妻と息子と共に訪れたことがあり、「今度また、お互いに一人ずつ増えた家族同士で会えたらいいね」と妻と話していたばかりでした。お嬢さんの死因は乳幼児突然死症候群、午後のお昼寝中の出来事だったそうです。一体なんということが起こるのだろうか・・・かける言葉も見つからないままに、16日(水)に旭川教会で行われた葬儀に出席してきました。今まで見たことのない小さな棺、この事実をどう受け止めたらよいのかという戸惑いと深い悲しみにあるご遺族の姿に、胸が締めつけられる苦しさを覚えました。・・・その悲しみの中で、お父さまのY先生がみ言葉を取り次いでくださいました。信仰者として、主イエスの約束してくださる永遠の命を信じ、御国での再会を心から信じ、その信仰は揺らがない中にあって、しかしこのどうしようもない現実に揺り動かされて「主よ、どうしてですか?いったいなぜですか?」と取り乱さざるを得ない心境を吐露されながらも、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と語りかけてくださる主イエス、そして「このことを信じるか」と、今私たちと同じ悲しみの極みに立って、その悲しみのただ中に、私たちが見つめるべきことを確信をもって語りかけてくださる主イエスの姿を示してくださいました。そしてこの主イエスのまことのことばを私たち家族と共に受け止めてほしいと。その場に集うだれもがこの出来事に言葉を失う、そのただ中にあって、主イエスの言葉がまことの言葉として、ご家族とまた私たちにとっての支えとなり、守りとなり、導きとなることを信じて、私たちは「アーメン(まことにそのとおりです)」と唱えました。このまったく言葉を失う状況のただ中で、私たち人間のどんな言葉もただ虚しく響くこの現実のただ中で、しかし私たちには、神の御業を信じ、神のみ言葉を信じて、その神のみ言葉に「アーメン(まことにそのとおりです)」と応えていく、この「アーメン」という言葉が与えられているのだということを心に刻みました。
今朝の福音書には、主イエスの故郷ナザレでの出来事が記されています。
「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。」(16~17節)
ここでイエスさまが手渡された巻物を開いてお読みになったのは、イザヤ書61章冒頭の部分でありました。
「主の霊がわたしの上におられる。/貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。/主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、/主の恵みの年を告げるためである。」
ここには、捕らわれからの「解放」と「自由」、「主の恵みの年」を告げる神の救いのみ言葉、福音(よき知らせ)が語られています。
そしてさらに、イエスさまはここで「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とはっきりとお語りになったのです。
預言者は、神の救いの福音をいつか成し遂げられる約束として語りましたが、イエスさまはこれを「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られました。これは、神の救い、福音の到来を告げる、キリストによる「福音宣言」と言うべきものです。
他ならぬこの神の救いの福音を実現されるその方ご自身が、今ここに来られ、お語りになる。貧しい人に福音を告げ知らせ、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる。このようなことを文字通り行うことのおできになるその方ご自身が、今ここにおられる。そして、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と力強く宣言されるのです。
私たちは病に捕らわれ、死の力に捕らわれ、苦難と絶望とに捕らわれる者です。その捕らわれの中で言葉を失っていく者です。しかし、そんな私たちに、そんな私たちの捕らわれの状況に切り込んでくるまことの言葉があるのです。生けるいのちの言葉があるのです。捕らわれからの「解放」と「自由」、「主の恵みの年」、すなわちキリストによる私たちの確かな救いの到来を告げる神のみことば、「無から有を呼び出される神」のみことばが!
私たちは、この預言者を通して語られた神のみことば、約束のことばと、それを今ここに確かに実現してくださるキリスト・イエスの宣言、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と告げられるキリストの福音宣言に、こころから「アーメン」と応えていきたいと思います。捕らわれからの解放と自由を信じ、今ここに「主の恵みの年」が宣言されていることに希望を抱いて、たとえ今困難の中にあっても、苦しみや悲しみの中に置かれているとしてもなお、まさにその今このときを生きていく者でありたいと願います。
「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」(詩編46編2節)
どうか望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださるように。アーメン