復活後第3主日説教 2012年4月29日 (於池上教会)
「主イエスの問いかけ」
(ヨハネ福音書21章15~19節)
江本真理牧師
15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」ペテロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」。イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。
教会で行う結婚式では、結婚するお二人に次のように約束してもらいます。
「あなたは今、○○さんと結婚することを神の御旨と信じ、今から後、幸いな時にも不幸な時にも、豊かな時にも貧しい時にも、病気の時にも健康な時にも、他の者が見捨てるような時にも、互いに愛し、敬い、仕えて、ともに生涯を送ることを約束しますか。」
牧師が新郎と新婦にそのように尋ね、「はい、神の助けによって、約束します。」と答えてもらいます。
ここでちょっと想像してほしいのですが、あなたがそう答えたとき、牧師があなたに向かって、「本当ですか」と問い返したらどうなるでしょうか。
そしてあなたが「本当です」と重ねて答えた後で、さらにもう一度、「本当に本当ですか」と牧師が聞き直したらどうなるでしょうか。
ちょうどそれと似たようなことが、先ほどご一緒に朗読しましたヨハネ福音書の物語の中で、主イエスとペトロとの間に起こったと言っていいでしょう。
21章15節から17説にかけて、主イエスがペトロに向かって、三度、「あなたはわたしを愛しているか」とお尋ねになり、そのたびにペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたという場面が伝えられています。
三度目に問われたとき、「ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」とあります。
ここで「悲しくなった」とは、自分の言うことを信じてもらえないのか、という思いでしょうか。
それと同時に、ここで繰り返しイエスさまに問われ、イエスさまに答えている間に、ペトロはかつて自分がイエスさまに語った言葉、そして自分のとった行動を思い出したに違いありません。
それはイエスさまが十字架につけられる前の晩のこと、最後の食事を弟子たちと一緒にとっていたときのことです。イエスさまはペトロに向かって、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」(ヨハネ13章36)と言われました。
その場面にこう記されています。
「ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。『わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。』」(13章37~38)
そして事実は、イエスさまのおっしゃったとおりに進んだことを聖書は証言しています。
ペトロが「イエスさまを知らない」と言ったのは三度。
イエスさまがペトロに「わたしを愛しているか」と問われたのも三度。
「ペトロは・・・悲しくなった」ということの背後には、それに気づいたペトロの身のすくむような思いが含まれていたに違いありません。
「この方は覚えている。」
それはあるいは、自分が今イエスさまに裁かれているという思い、イエスさまに試されているという思いだったかもしれません。三度、イエスさまのことを知らないと言った「裏切り」は決して軽々しい事柄ではないからです。
イエスさまを裏切ってしまったということがペトロの心に暗い影を落とし、ペトロの心の大きな痛みとなっていたことは想像に難くありません。三度にわたるイエスさまからの「わたしを愛しているか」との問いかけに、ペトロは心が締めつけられるようないたたまれない思いになり、悲しくなったはずです。イエスさまを裏切る以前のペテロであれば、「あなたは他の弟子たちよりもっとわたしを愛するか」と聞かれたら、自信たっぷりに「はい、あなたを他の誰よりも強い愛で愛しています。決してあなたを裏切ったりしません」と言ったことでしょう。でも今は、それを言うことができません。自分は他の弟子たちと何も変わるところはない、イエスさまを裏切った、弱い、一人の人間であるということを強烈に自覚させられていくのです。
その中で、三度目のイエスさまの問いかけに対するペトロの答えは、それまでの答えとは違うこういう言葉で始まっています。「主よ、あなたは何もかもご存知です」と。そして「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と続くのです。・・・ここでペトロはすべてをさらけ出して応えています。単に主を愛していることだけでなく、自分の弱さのゆえに主を裏切ってしまったことも、そして今それを後悔しつつ惨めな思いの中にいることも、それらすべてを主の前に認めています。自分の最も触れたくないと思っていた部分に、今自ら足を踏み入れるのです。これはいわばペトロの罪の告白であり、彼の悔い改めを意味していると言えるでしょう。
そして、このようにペトロが自分自身の弱さ、惨めさにしっかりと向き合っていくということこそがここで大事だったのだと思います。ペテロの傲慢な心はこの時、砕かれてしまいました。他の弟子たちと何ら変わりない。他の人より強くない。自分は弱く、裏切り者である。自分の弱さ、罪深さを自覚することが、実は、これからのペテロの歩みにはとても大事なことだったのです。
イエスさまはペトロに言われました。「わたしの羊を飼いなさい」。イエスさまを知らないと言ったペトロ、イエスさまを捨てて逃げたペトロ、そしてまた、イエスさまに申し訳ない気持ちで顔を隠したいと思うペトロ。このペトロの情けなさも弱さも、自分のしてきたことを悔いて悲しむ心も、すべてイエスさまは受け止めて、その上で「わたしの羊を飼いなさい」と言ってくださいます。
このイエスさまとペトロとのやりとりは確かに厳しいものです。ペトロは自分自身の弱さと向き合わされていくからです。しかしこのように繰り返し問いかけるイエスさまの厳しさは、ペトロに対して「だからあなたは駄目なのだ」というふうにペトロを切り捨てていく「裁き」なのではなくて、ペトロ自身に本当の姿を自覚させていきながら、そのあなたのありのままの姿でこれからも「わたしに従ってきなさい」と言っておられる。・・・何も一番にならなくてもいい。弱さを持っていてもいい。欠けていてもいいのだと。ペテロの限界、弱さ、それをわかっていて、それでも「わたしの羊を飼いなさい」と言って、大事な使命を託してくださる、イエスさまの愛に満ちたまなざしが見えます。
そして、イエスさまはペトロがこれから先どういう生き方をしていくのかを、ペトロに示されます。それは決して喜ばしい人生ではないようです。若い時のペトロは、自分で帯をしめて、自信たっぷりに、自分のしたいことをし、行きたいところに行っていたのです。しかし、晩年のペテロは、違います。両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところに連れて行かれると。これはペトロがイエスさまと同じように十字架で、一説には逆さ十字架につけられたといわれますが、十字架にかけられて死ぬことになることを意味しています。
若き日のペトロは、自分に自信たっぷりで、積極的で熱しやすい素直な性格でした。でも、その性格の裏側には、失敗するとすぐ心がくじけてしまったり、他の人に「お前はイエスの弟子か」と言われると「知らない」と言ってしまうような自分を守ろうとする、そういう弱さがひそんでいたのです。
けれども、ペトロは、年をとっていくにつれ、そのような強い自分を失っていき、いい意味で落ち着いてきて、それだけに自分がイエスさまと同じ十字架にかかるということから逃げないで生きるようになっていったのかも知れません。自分の願いとは逆に行くことがある。しかし、そこに神の栄光があらわされることがある。そう静かに思うことができるようになっていくのかもしれません。
傲慢で、自分勝手で、熱しやすく冷めやすい、弱さを抱えたペトロの心が砕かれて、悔い改めていくときに、イエスさまはこうおっしゃいました。「わたしの羊を飼いなさい」「わたしに従いなさい」。自分に従うのではなく、イエスさまに従うということを理解できるように、ペテロの心の中にからまった欲や高ぶりをほどいて、それから福音を語るために送り出して行く。イエスさまのあたたかいぬくもりが伝わってくるように思います。
イエスさまが三度も「わたしを愛しているか」とたずねられたのは、からまった糸をほどいていくように、ペテロの心を大事にほどいて、これから先の人生に謙虚に向かって行くことができるようにするためではないでしょうか。そして、イエスさまは、ペテロの心の中の痛みや、イエスさまを裏切ったことへの後悔や、人格的な弱さを、すべて受け止め、赦して送り出されたのです。
同じ思いで、イエスさまは私たち一人一人にも向かっておられるのでしょう。「あなたは私を愛しているか」。・・・この問いかけに、私たちは「主よ、あなたは何もかもご存知です」と、今の自分をさらけ出しながら、イエスさまに応えていきたい。自分の弱さに打ち砕かれながらも、でも「そこから始めなさい。わたしに従いなさい」と言われるイエスさまに、安心して、ゆだねて、歩んでいきたいと思います。
どうか望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださるように。アーメン。