竹の塚ルーテル教会

Takenotsuka Lutheran Church


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四旬節第二主日説教 2013年2月24日

「見えるようになりたい」 (ルカによる福音書18章31~43より)
江本真理牧師

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+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

今日の福音書の箇所には、イエスさまの三度目の受難予告に続いて、ある盲人の癒しの記事が記されていますが、これを通して読みますときに、盲人がイエスさまに向かって「主よ、目が見るようになりたいのです」と言った言葉がわたしの心を捕らえて離さないのです。「主よ、目が見えるようになりたいのです」。これはイエス様が「何をしてほしいのか」と尋ねられたその問いかけに対する盲人の答えです。このところを文語訳聖書で読んでみるとこうなります。「イエス問ひ給ふ『わが汝に何を為さんことを望むか』彼いふ『主よ、見えんことなり』」(41節)。「主よ、見えんことなり」。…これほどストレートに自分の願いをイエスさまに告げることができる、その姿勢・態度にわたしは一種の感動を覚えます。私たちにも願いはあります。こうしてほしい、こうなりたいという思いを持っています。けれども、その願い・思いをこの盲人のように素直に、ストレートに言うことができるでしょうか。自分ではこうしてほしい、こうなりたいと思っていても、しかし、心のどこかでそれは所詮無理なこと、あきらめなければいけないこと、どうしようもないこと、そんなふうに思っている節はないでしょうか。あるいは、そこまで悲観的には見ていないとしても、頭で理解できる範囲の中で、つまり自分に何ができるかという可能性を探るような思いで、何とか解決を見出そうとしていないでしょうか。

さて、最初にイエスさまの三度目の受難予告が記されています。「今、わたしたちはエルサレムに上って行く。人の子について預言者たちが書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する」(31~33節)。しかし弟子たちはまだこの主イエスの受難と復活の出来事がわかりませんでした。「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」(34節)。彼らの目には、イエスの受難と復活の出来事は隠されていた。見えなくされていた。そんな弟子たちの姿と対照的な形で、続いて、ある盲人の癒しの記事が記されるのです。

イエスさまはエリコという町に近づかれたとあります。エリコの町はエルサレムから20数キロばかりのところにあり、非常に近い。「今、わたしたちはエルサレムに上っていく」と言われたように、イエスさまはいよいよ受難の地エルサレムに近づかれるのです。その時「ある盲人が道端に座って物乞いをしていた」(35節)。ある盲人、彼についてどのような事情があったのか聖書は記しておりません。生まれつき目が見えなかったのか、あるいはもとは見えていたのに途中から見えなくなったのかもしれません。いずれにしろ、今その目の見えない人は、群衆が通って行くのを耳にしたのです。大勢の人が自分の前を通り過ぎていくただならぬ雰囲気、自分の目が見えない分、耳を通してそのただならぬ雰囲気を聞き取り、感じ取った彼は尋ねます。「これは、いったい何事ですか」。すると、ある者が「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせます。ナザレのイエス、彼のことは恐らくこの盲人も噂として聞いていたでありましょう。数々の不思議な業や奇跡を行った人物。そのナザレのイエスが通られる。彼は今このときしかないと思ったのでしょう。まさにこの瞬間に彼は自分のこれまで心の中で叫び続けてきた叫びを、声を大にして叫ぶのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。

「わたしを憐れんでください」。この叫びは今日の日課の直前に記されている「金持ちの議員」の話で、「ある議員がイエスに、『善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』と尋ねた」(18節)のとは違い、もうどうにもならない状況の中で、ただただ今自分の前を通り過ぎようとするイエスに、憐れみを求める懇願です。もはや、自分が「何をすれば」などと言うことはできない。むしろ自分ではもうどうにもならない、どうすることもできない。それを知っていればこそ、その自分の無力さの中で、ただただ外からの憐れみを乞い求める、そんな姿が伝わってきます。それは、イエスさまの「先に行く人々が叱りつけて黙らせようとした」にもかかわらず、そのようなことで意気消沈してしまうようなものではありませんでした。彼は「ますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた」のです。

このように必死に叫び続けるこの盲人の訴えを、どうしてイエスさまが見過ごしにされるでしょうか。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ11章9~10)とイエスさま御自身が弟子たちに言われたように、今、この必死に憐れみを乞い求める一人の盲人の叫び、心からの叫びに、イエスさまは足を止められます。彼を自分のそばに呼び寄せ、そして言われるのです。「何をしてほしいのか」。

イエスさまがベトザタの池で病人を癒されたとき「良くなりたいか」と尋ねられたのを思い起こします(ヨハネ5章1~9)。そのとき38年も病気で苦しんでいたその人は、「良くなりたいか」とのイエスさまの問いかけに、素直に「良くなりたいです」と答えることができませんでした。良くなりたいのは自明のこと、自分がずっと願い求めていたことである。ただその願いを実現するための手段がないのである。池の水が動くとき、その池に真っ先に入ればどんな病気も癒されると言われていたその池に、自分を入れてくれる者がいないのである。癒される方法はわかっていても、その方法を実行する手段が見つからないのである・・・。そのように訴えたのでした。

しかし今、この盲人は、イエスさまの「何をしてほしいのか」との問いかけに、「主よ、目が見えるようになりたいのです」とストレートに答えています。方法も手段も見あたらないし、わからない。自分の力ではどうすることもできない。しかしそうであるからこそ、すべてを今自分の前にいる主イエスにかけるしかない。すべてを委ねきって、憐れみを乞うしかない。ただ与えられるのを待つしかない。そういう自分の状況を知っていたからこそ、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と、自分の望んでいることをありのままに、ストレートに言うことができたのでしょう。今ここにいる主イエスにすべてを委ねて、自分の全存在をかけて、願い求めて行く姿勢。ただ主イエスのみに頼る姿勢。この姿勢こそが、イエスさまをして「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」(42節)と言わしめたのでしょう。そしてまた、自分の無力を知ればこそ、自分の側には何ら可能性がないことを知ればこそ、目が開かれた喜び、(再び)光を与えられた驚きと喜びから、神への讃美、ほめたたえが出てくるのでしょう。そして彼は主イエスに従ったのであります。

「主よ、目が見えるようになりたいのです」。一人の盲人のこの切実な願い、これはそうしてもらえたら嬉しい、そうなったらいいという程度のことではなくて、むしろ今私の前に立つあなたに、キリストにそうしてもらう他ないという切実な願いであります。あなたがこのわたしの目を開いてくださるのです。わたしに光を与えてくださるのです。あなただからこそそれができるのです。だからこそわたしははっきりと言います。「主よ、目が見えるようになりたいのです」。わたしの目を開き、わたしに光を与えてください!

このように、ただひたすらにイエスさまへと向かっていく姿勢、信仰の姿勢があるとき、イエスさまの言葉はわたしたち(の内)に力強く働いてくださるのです。そのような意味で、この癒された一人の盲人に示されている姿勢は、イエスさまから注がれる力をそのまま自分のうちに受け入れていく姿勢であると言えます。この彼の姿勢を見るとき、「祈り」について思います。

O・ハレスビーという、ノルウェーのルーテル教会の牧師、神学者が『祈りの世界』という本の中で、「祈り」についてこのようなことを書いています。「祈るとは心を開いてイエスをお迎えすることです」。・・・「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙示録3章20)。祈りの本質とは、わたしたちの内に入って来られようとして、わたしたちの心の扉を叩いているイエスさまを、私たちが心を開いて自分の内にお迎えすることだというのです。すると、わたしたちの内でイエスさまが良い働きをしてくださるというのです。昔から祈りは魂の呼吸と言われてきました。わたしたちの体に必要な空気は、わたしたちを四方から取り囲んでいます。空気は自然にわたしたちの中に入ってこようとしています。呼吸を止めることは、吸うことよりもはるかに難しいのです。口を開きさえすれば、空気は自然に肺の中に入ってきて、体全体に生命を与える機能を果たすのです。魂が必要とする空気は、いつも、どこでもわたしたちを自然に囲んでいます。神は多様で十分な恵みをもって、キリストにあってどこででもわたしたちを囲んでいます。ですから、わたしたちはただ魂(心)の扉を開きさえすればいいのです。そのように祈りは魂の呼吸であり、わたしたちの乾ききって打ちしおれた心にキリストをお迎えするための器官なのだと、そのようなことをハレスビーは言っています。

祈るとは心を開いてイエスをお迎えすることである。これはわたしたちに大きな示唆を与えてくれる言葉であると思います。祈りには、積極的に願い求めていくという面があります。祈りは神様から命じられていることであり、わたしたちも積極的に神様に祈り、願い求めていくことが大切です。そして確かにイエス様も、このように祈りなさいと言って祈ること(「主の祈り」)を教えてくださり、続けて、熱心に祈り求めることの大切さを説いて「求めなさい。そうすれば与えられる・・・」と言われたのです。けれども、これだけを知っているだけでは、いつの間にかわたしたちの祈りは自分勝手な思いやわがままを押し通すということにもなりかねません。そしてその祈り、願いがかなわないと、もうあきらめて願うことをしなくなってしなう、祈ることをしなくなってしまうということになってしまいます。ですから、熱心に祈り求める、必死に願い求める、というときの、その熱心さ、必死さには、自分にはどうすることもできないという自分の無力さを認めて、ただイエスさまの働きに委ねていく、心を開いてイエスさまを自分の内にお迎えするということが求められているのです。

今、聞いてまいりました「主よ、見えるようになりたいのです」との主イエスに対する答え、この率直な、ストレートな言葉も、どうしても・・・という熱心さ、必死さと共に、自分を開いて、自分の心を開いてイエスさまに委ねていく、イエスさまをお迎えしていく、そのような彼の姿勢を示す言葉なのです。そしてそのとき、「見えるようになれ」と言われるイエスさまの言葉が、わたしたちの内に力強く働くのです。わたしたちもこの主イエスに癒された盲人のような姿勢をもって、神に祈り、願い求めていくものでありましょう。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。」これが今年度の竹の塚教会の主題聖句です。

どうか望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。

アーメン


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2013年度 0才から2才まで「親子で英語」のご案内

赤ちゃんがなぜ泣いているのか、なぜ笑っているのかわかりますか?

赤ちゃんはお母さん、お父さん、そして世界とつながっていることをいっしょうけんめい知らせたいのです。

ちょっとした工夫や方法で、お互いの気持を伝え合うことができます。

竹の塚ルーテル教会の英会話教室では、0才から2才のお子さんとその保護者が一緒に学べる2つのクラスをご用意しました。

・ベビー・サイニング・タイム・・・0才から2才の赤ちゃんと保護者が、簡単なサイン(手話)を使ってコミニュケーションを学びます。

・ベビー・クラス・・・0才から2才の赤ちゃんと保護者が、簡単な英会話に触れるクラスです。

クラスはいずれも日本語のできる女性のネイティブ・イングリッシュ講師が指導します。英語力は不要です。

興味がある方は、ぜひこちらのご案内をごらんください。 ご質問などは気軽に教会までお問い合わせください。

2013Baby Classes


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2013年イースターのご案内(チラシ)

今年のイースターは3月31日になります。

イエスさまの復活を覚えてお祝いしましよう。

聖金曜日礼拝は3月29日(金)午後7時30分です。

30日(土)には毎年恒例のイースターエッグも作ります。

初めてでも大丈夫。詳しくは教会までお問い合わせください。

イースター案内2013_2_01