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投稿者: 竹の塚ルーテル教会
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「聖霊きたれり」(創世記11章1-9節、使徒言行録2章1-11節より)
江本真理牧師
+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。
今日は聖霊降臨祭(ペンテコステ)です。これは「教会の誕生日」とも言われ、キリスト教会にとっては、降誕祭(クリスマス)、復活祭(イースター)と並んでお祝いされる大切な日です。
聖霊降臨。それは、復活したイエスさまが天へと昇られてから十日たったときのことでした。エルサレムの町は、五旬祭(ペンテコステ)という祭りでにぎわっていました。エルサレムに住むユダヤ人ばかりでなく、いつもは外国(他の地域)に住んでいるユダヤ人たちも、エルサレムの神殿に集まってくるのです。一方、イエスさまの弟子たちは、みんなで集まって祈っていました。「わたしが天に帰ったら、あなたたちに聖霊を送ります」とおっしゃったイエスさまの約束を信じて、「どうぞ聖霊を送ってください」と熱心に祈っていたのです。
そのようにして弟子たちが一つになって集まっているところに、イエスさまの約束されていたことが起こりました。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2章2-4)。そして、その場に集まってきた人々は、弟子たちが外国の言葉で神さまのことを話しているのを聞いてびっくりしました。そこには、いろいろな国や地域からやってきた人がいたのですが、どの人も、自分が住んでいる国や地域(故郷)の言葉で弟子たちが「神の偉大な業を語っている」のを聞いたというのです。
このように、この五旬祭(ペンテコステ)の日、弟子たちの上に、約束の聖霊、イエスさまが約束してくださっていた神さまの霊(聖霊)が下り、その聖霊の力に満たされて、弟子たちはさまざまな国の言葉で神の偉大なみわざについて語り出した、つまり神さまの福音を宣べ伝え始めたのです。そしてここに、聖霊の働きにより神の福音を宣べ伝え、証ししていく弟子たちの群れ、教会が誕生したのです。聖霊きたれり!激しい風が吹いてくるような音が聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、弟子たち一人ひとりの上にとどまった・・・不思議な現象ですけれど、直接目には見えない「聖霊」というものが送られる様子が、ここでは見聞きできる現象として起こっています。そして、この「激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ・・・炎のような舌が分かれ分かれにあらわれ、弟子たちの上にとどまった」というのは、神さまの息吹に満たされて、神さまの御手にとらえられた弟子たちの姿を示しています。
聖霊降臨(私たちに約束の聖霊が送られて、その聖霊の力に満たされる)というのは、言ってみれば、神さまが私たち一人ひとりに手を伸ばし、その手に私たちが直接とらえられるということ、その腕に抱かれるということです。聖霊というのは、私たちの弁護者、助け手、導き手と言われます。・・・子どもになすべきことを教え、正しく導いていこうとする親のような存在・・・。子どもが何もわかっていなくても、きちんとわかっている親に手を握られていれば大丈夫!子どもは親に手を握られていれば安心できます。子どものときに、親に手をつないでもらって安心した経験が皆さんにもないでしょうか。はっきり覚えていなくても、私たちにとってどこか懐かしい記憶、手を握られている安心感。あるいは、大好きな人、本当に信頼できる人に手を握ってもらったときに感じる安心、湧いてくる勇気、希望。私たちには、実際いろんな心配事、不安もあるでしょうけれども、どうか恐れないでください。今日この聖霊降臨日に、安心や安らぎ、希望、それらをもう一度取り戻しましょう。私たちの本当の助け手、導き手にしっかりととらえられているなら、私たちは何も恐れなくていいのです。
聖霊降臨というのは、何も特別な人たちにだけ起こったこと、起こることではありません。私たち一人ひとりに起こることです。すべての人に神さまは手をのばして私たちをとらえてくださる。私たちの手を握ってくださる。それが神さまの御心だからです。だから私たちは何も恐れなくてよい、安心してよい。
そして、私たちがそのようにしっかりと神さまに手を握られているのだとすれば、片方の手が神さまにしっかりと握られているのであれば、空いているもう片方の手で、すごくいいことがいっぱいできる。あらゆる壁を越え、どんな障害も憎しみも越えて握手することができる。それこそ、神の手を必要としている人を助けるために手を伸ばすことができる・・・
聖霊降臨というのは、教会の誕生日だと先ほど言いました。弟子たちの集いに聖霊がやどって教会が生まれた。それは、弟子たちの手をしっかりと神さまの手が捕まえてくださったときに、弟子たちはもう片方の手でいくらでも神さまの働きをすることができるようになったということでしょう。これが教会の出発点。そして、その働きの第一として、今日ご一緒に聞いている、あらゆる国の人々にその人々の言葉で福音が伝えられていくという出来事があります。私たちの間に存在するさまざまな壁や限界(文化や言葉の違い)が、聖霊の働きによって越えられていくのです。
さて、今日の旧約聖書の日課として読まれた創世記11章の「バベルの塔」の出来事にも触れたいと思います。
このバベルの塔の物語の背景にある神さまの意図は、人々を散らすことです。それは神さまの祝福の広がりを意味します。神さまの祝福が全地を満たすこと、それが神さまの御心なのです。しかし、ここには散らされまいと結束する人間たちの姿が描かれます。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言います。彼らは散らされまいと結束していくのですが、その結束は神さまを締め出します。神さまを締め出したところで、自分たちの思いだけで結束していこうとする。一つになろうとする。しかし、その「結束」はやがて「結託」へと変わっていくのだと思います。「結束(志を同じくする者が一つとなること)」それ自体は悪いことではないでしょう。しかし、神さまを締め出して自分たちの思いだけで「結束」しようとすると、それはいつしか「結託」になっていく。「結託」とは「不正を行なうためにグルになること」と辞書にあります。有名になる、自分たちの名をあげる、そのために自分たちに都合の悪いことは隠ぺいするようになり、自分たちと同じ考えを持つ者だけで結束し、結託し、自分たちの考えに合わない者たちは排除していく、切り捨てていく、そのようにして自ら取り返しのつかない事態を招いていくことになる私たち人間の姿というものが、ここに示されているように思います。これに対して、神さまは人々の言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられぬようにされたので、結果彼らは町の建設をやめ、そこから全地に散らされていったと言われています。
言葉を混乱させられ、全地に散らされた、ということは、一見、神さまの厳しい裁きに思えることですが、しかし、神さまの御心は、最初から人々を全地に散らすことにあったのです。そのようにして、神さまの祝福が全地に、地の果てに至るまで満ちることを神さまは望んでおられる。そうであるならば、ここで人々たちが全地に散らされたということは、神さまの大きな祝福のうちにあることだと言えるでしょう。そして、このバベルの塔の出来事が、神さまの御心に適ったことであり、神さまの大きな祝福のうちにあるということが、まさに「聖霊降臨」の出来事を通して確かにされているのです。
かつてバベルにおいて、バラバラにされたとされる言葉、そして全地に散らされた人々。その互いに異なる言葉や人々が、聖霊の働きによって一つにされていく。ただしそれは、皆がもう一度同じ一つの言葉を話すようになるというようなことではなくて、あらゆる国の人々にその人たちの言葉で、ただ一つの福音、神さまの偉大な御業が伝えられていくという形であったのです。地の果てまで福音が宣べ伝えられていく、さまざまな状況に福音が伝えられていく、そのために私たちの間に存在するさまざまな壁や限界(文化や言葉の違い)と思えるものが、しかし、聖霊の働きによって越えられていくのです。そして、そこでは、お互いの違いというものは宣教の妨げとなるものではなく、そうではなくて、福音の豊かさ、神さまの御業の偉大さ、恵みの大きさを証しするものとなるのです。
今日、聖霊降臨の主日に、私たちは自分の手が神さまによって今しっかりと握られていることを信じましょう。そうして、私たち自身のうちに聖なる霊が働いていることに気づかされていきましょう。たとえなお恐れや不安を抱えているとしても、あらゆる障害を乗り越え、壁を越えていくことのできる聖なる霊が、今私たちをしっかりととらえてくださっています。神さまの優しくも力強い聖なる御手が、私たち一人ひとりの手をしっかりと握ってくださっています。聖霊きたれり!このことを信じて歩みましょう。
どうか望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださるように。アーメン。
投稿者: 竹の塚ルーテル教会
「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章31~35節より)
江本真理牧師
+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。
イエスさまは言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(34~35節)
今日は、このイエスさまが語られている「互いに愛し合いなさい」というメッセージについて、聞いてみたいと思います。
イエスさまが語られたこの言葉は、ご自分がこれから捕らえられて十字架に架けられていくことを知りながら、そのことが起こる前に、ご自分の愛する弟子たちに対して、これだけはあなたがたに伝えておきたいという強い思いの中でお語りになった言葉でありました。
イエスさまは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とおっしゃっておられます。ここに「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉があります。つまり、イエスさまがまず私たちのことを愛してくださった、私たちのことを愛してくださっている、そのイエスさまの愛を受けて、そのイエスさまの愛の中で、私たちが互いに愛し合うという生き方をしていくのだと言い残されたのです。
それでは、イエスさまはどのように私たちのことを愛してくださったのでしょうか。イエスさまの愛が最もよく表されているのは、イエスさまの十字架の出来事です。私たちのためにご自分の命をすら差し出してくださった、その十字架の愛です。
イエスさまは、ヨハネ福音書15章の「わたしはぶどうの木」とおっしゃった箇所でもこう言われています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15章12~13節)。
そのように、私たちを「友」と呼んでくださり、「友のために自分の命を捨てる」という、これ以上ない愛の姿を示してくださった。それがイエスさまです。では、イエスさまがそのように私たちを愛してくださるのは、私たちがそのように愛されるに足るほどに立派だったからでしょうか。
ここでローマの信徒への手紙五章(6~10節)を開いてみたいと思います。
「6実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。7正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。9それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。10敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」
ここにはイエスさまの十字架の愛が端的に言い表されています。どんなときに、つまり私たちがどんな状態のときにイエスさまが私たち愛し、私たちのために十字架に架かってくださったのか、そのことが記されています。三つ挙げられるでしょうか。
まず一つ目は6節です。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」。ここには「わたしたちがまだ弱かったころ」と書いてあります。自分で善を行うことができない弱さ、また誘惑に打ち勝つことのできない弱さを持つ、そういう「不信心な者」のためにイエスさまは十字架に架かって死んでくださったというのです。
二つ目は8節です。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。二つ目は、「わたしたちがまだ罪人であったとき」です。
そして三つ目は10節です。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」。三つ目は、私たちが神さまに敵対していた、敵対心を抱いていたときです。
つまり、私たちが立派だったから、神さまを信じるようになったから、イエスさまは私たちのことを愛してくださったのではありません。私たちがイエスさまのことを知るようになる前から、私たちが教会に行くようになる前から、いや私たちが教会に対して敵対心を持っていたり、あまり良い印象を持っていなかった、そのようなときから、そして私たちがまだ弱く、罪深い生活をしていた、そんなときから、イエスさまは私たちのことをちゃんと見ていてくださり、私たちのことを愛しておられたのです。
そしてそんな私たちを救うために、イエスさまは命を投げ出して、十字架に架かって死んでくださいました。今朝、イエスさまがおっしゃっている「わたしがあなたがたを愛したように」というのは、そういうことです。そしてイエスさまは私たちがまだ罪深かったときから、弱かったときから私たちのことを愛していてくださいました。これは言い換えれば、イエスさまは私たちの弱さも欠点も知りながら、そんな私たちの弱さや欠点でさえも、そのままに受け入れてくださったということです。
このようにイエスさまが私たちを愛してくださった。愛してくださっている。そのように私たちも「互いに愛し合いなさい」と言われます。つまりイエスさまが私たちの欠点も失敗もあるままに私たちを受け入れてくださったように、私たちもまた、欠点もあり、失敗もする、そのような相手を受け入れていくのです。
イエスさまはどうして「互いに愛し合いなさい」と何度も弟子たちにおっしゃったのでしょうか。イエスさまの最も身近にいた12人の弟子たち、そしてマルタやマリア、ラザロ、マグダラのマリア、そういった人たちだけであれば、一致団結し互いに受け入れ合うのは、つまりよく知る身内同士で互いに受け入れ合うということであれば、それは比較的実現しやすいことであったかもしれません。・・・しかしやがて初代教会の時代になると、不特定多数の大勢の人たちが教会にやってくるようになります。その中にはユダヤ人もいれば、ギリシア人もいました。ローマの役人もいました。いろいろな人たちが教会に来るようになる。イエスさまはそのことも見越した上で、弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と言い残されたのだと思います。そしてそのときに、お互いに違いがあることを認め合いながら、個性の違い、性格の違いがあることをお互いに認め合いながら、お互いに一致していくように、受け入れ合い、失敗があっても赦し合っていくようにと、そのためにイエスさまは「互いに愛し合いなさい」と何度もおっしゃったのだと思います。
このように「互いに愛し合いなさい」と言われている私たちです。イエスさまはこの私のために、この私の罪の赦しのために十字架に架かって死んでくださり、この私の罪をあがなってくださいました。しかし、このイエスさまの十字架は自分一人だけのものではありません。自分が受け入れられないあの人のためにも、やはりイエスさまは十字架に架かって死んでくださったのです。この十字架の愛を本当に受け止めるところで、私たちはこんな自分が受け入れられているという感謝と喜びの気持ちから、また、人を受け入れることができる者とされていくのです。
そして、そのように私たちが互いに愛し合うとき、互いに受け入れ合い、赦し合っていくとき、私たちがイエスさまの「弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)と言われていることも大切です。私たちがイエスさまの弟子であること(イエス・キリストが今も生きて働き、私たちを導いていてくださること)は、互いに愛し合うという私たちキリスト者の生き方を通して表されるのです。ヨハネの手紙一にはこう記されています。
「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(Ⅰヨハネ4章12節)。
イエスさまが弟子たちに、そして私たち一人ひとりに、これだけは伝えておきたいという思いの中で語ってくださった言葉――互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。――この主の御言葉に生かされ、この主の御言葉に生きる私たちでありたいと願います。
どうか望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン
「主は今生きておられる」 (ルカによる福音書24章13~35)
江本真理牧師
+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。
先週(3月31日)私たちは、主イエス・キリストの復活の出来事を聞き、イースターをお祝いしました。今朝は、ルカ福音書が、その復活の出来事に続いて記す、エマオ途上での二人の弟子と復活の主イエスとの出会い、その出来事を聞きます。
ここに登場してくる二人の弟子。彼らは、ここで前へ進んでいくというより、後ろへ進んでいくような歩みを進めている人たちです。彼らは、このときまだ他の弟子たちが残っていたエルサレムを離れて、エマオという村へ向かっています(エマオはエルサレムから60スタディオン、約11キロ離れた所)。この二人は明らかに、弟子の群れから離れていった人たちです。二一節にあるように、彼らは、主イエスこそ「イスラエルを解放してくださる」方だと望みをかけていました。しかし、その主イエスが十字架につけられて殺されてしまった。それによって自分たちの望み(希望)も絶たれてしまった。もはやエルサレムにいてもしようがない。むしろ、エルサレムにいたら、主イエスに従っていた自分たちの身さえ危うい。そこで彼らは弟子たちの群れを離れ、エルサレムを離れてエマオという村へと向かった。いわば逃避行です。この二人が前へ進んで行くというより、後ろへ進んでいくような、後ろ向きの歩みを進めている、と言ったのはそういうことです。そのような逃避行の途上で、しかし、この二人は復活の主と出会うことになります。主イエス御自身が近づいてきてくださるという形で、しかも、それが最初主イエスとは気づかないような形で出会うことになるのです。
主イエスが一緒に歩き始められるまで、この二人の弟子はここ数日に起こった一切の出来事について話し合い、論じ合っていたようです。しかし実際話題は二人にとっては暗いものでした。望みを絶たれ、希望を失い、いったいこれからどうしたらいいのだろう、実際エマオへ行ったところでどうしようというのか…。そんな思いの中で、足取りも重かったことでしょう。主イエスは十字架につけられて殺されてしまった。自分たちの希望は絶たれてしまった。しかも婦人たちは「イエスは生きておられる」などと言っている。実際墓に赴いた仲間たちも主イエスの遺体を見つけることができなかったという。いったいどうなっているのか。失望と混乱を抱えながらの逃避行。後ろ向きの歩みです。
しかし、途中から加わってくださった主イエスが、聖書を説き、これを神の言葉として聞き直すようにしてくださいました。聖書全体に渡り、それはメシア(キリスト)について書かれていることを説明してくださいました。苦しみを受けて栄光に入られるメシアの姿を解き明かしてくださいました。彼らは熱心に耳を傾け、その話に夢中になっていきました。そして目指す村に近づいてきたときには、彼らは、なおも先に行こうとされる主イエスを無理に引き止めて、共に泊まるために家に入ったのでした。この二人の弟子たちはいつしか、主イエスの話される言葉にとらえられていたのです。そしてこの後、一緒に食事の席につき、主イエスが賛美の祈りを唱えてパンを裂いてお渡しになったとき、彼らはそれが主イエスだとわかったけれども姿は見えなくなったというのですが、そのとき、彼らはそれまでのことを振り返って言うのです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と。あのとき我々の心は確かに燃えていた、そう言うのです。この心の燃え方は不思議な燃え方です。そのときは気づかなくても、あとで振り返って、ああ、あの時は確かに燃えていたではないかというのです。途中でかっかして、火のように燃え上がったというのではないのです。燃えているとき、そのほてりを、その場ですぐに感じ取ったほどに熱くはなかったのです。我を忘れるような熱狂はなかったのです。じっくりと、しかし、確かに燃え始めていた。そういう燃え方、静かな燃焼です。そして静かに見えるけれども、実は内側では、確実にあつく燃え始めている。そのときには自分自身も気づいていない。自分でもわからなかったけれども、しかし確かに心は燃えていた。そういう燃え方です。そして、このように弟子たちの心が燃えたのは、なんと言っても、このとき、復活の主が彼らと歩みを共にしてくださったからでありました。
ここで決定的に大切なことは、私たちにとって、もはや、主の十字架の意味も復活の意味もわかりそうもないと思われるそのところで、主イエスが、なお私たちと共に歩き続けてくださっているということです。希望が絶望にかわり、失意のうちにキリストの語られた恵みの言葉さえただむなしく響くのみ、そう思われるところで、実は主がもっとも近くに来てくださり、歩みを共にしてくださっているのです。・・・「わたしの嘆きがもっとも大きい時、それは実は神がもっとも近くにおられる時」・・・ただ私たちは、そのことに気づいていない。復活の主が、実はわたしの傍らにいてくださることに気づいていないのです。けれども、主は共にいてくださる。そして、主が共にいてくださり続けることによって、初めてそのことに気づかされていくのです。
しかも、ここで私たちが注意して見たいのは、主イエスが御自分の復活の証しを立てるのに何をなさったか、ということです。ご自分が復活して今も生きておられることを示すのにどうなさったかということです。ほら、わたしは甦ったではないか、と他の弟子に見せたように、手にある釘あとを見せ、足にある傷跡をお見せになるということはしませんでした。覆面を脱いで見せるように正体を現すというようなことはなさいませんでした。そうではなく、聖書の話をなさったのです。これは少し回りくどいと思えることかもしれません。しかしここで主イエスは聖書の言葉を解き明かされたのです。「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(27節)のです。そしてそのとき、それを聞いた弟子たちの心は燃えていた。聖書のみことばを通して、彼らは復活の主キリストに出会っていたのだと言えます。そして心燃えていた。
聖書66巻が語っている主イエスの恵みそのものの豊かさが、私たちの内にあふれ、心を燃やすのです。だから、教会は二千年の間、ひたすらに聖書を読み続け、説きあかし続け、そこで主イエスと出会い、今も生きて私たちと共に歩んでくださっているキリストの恵みに心燃やされてきたのです。御言葉を通して復活の主を知ったこの二人の弟子たちは、熱い思いを持ってその日の出来事を皆に伝えたことでしょう。その日の熱い思いを伝えていったことでしょう。きっと伝えたくて仕方ない、黙っていられなくて伝えていったのです。
私たちも神の言葉が心の中に入ってくるように、心が燃えてくるように求めましょう。聖書を開いて聞いていきましょう。神は私たちの心を燃やす言葉をたくさん持っておられます。私たちを生かす言葉、私たちに命を与える言葉、聖書の中にはそのような神の言葉がいっぱいに詰まっています。神は私たちに言葉を伝えたくて、心の中に届けたくてうずうずしておられることでしょう。わたしはあなたを愛している、わたしはあなたと共にいる、その言葉・メッセージをいつも私たちに語りかけておられるのです。
私たちが生きる現実は甘くありません。厳しいのです。いろいろな困難に出遭う。もうどうにもならない、手に負えない、やっていられない、そういう状況に置かれる。現実の厳しさが自分を打ちのめす。聖書の言葉なんか聞いていられない、そんなもの信じられない、そう思うような出来事がたくさん起こってくる。もう何がどうなっているのか訳が分からず、どうすればいいのかわからない、ということが起こってくる。
しかし、まさにそんな状況にあるときに、復活の主は弟子たちに近づいてきて一緒に歩き始められたのです。そして、彼らに聖書をもって語りかけられたのです。その言葉を聞いて彼らの心は燃えたのです。そこで彼らはまたエルサレムへと向かいます。失望して逃げ出してきたエルサレムへ、主イエスが十字架につけられたその場所へ帰って行くのです。敗北と思っていた主イエスの十字架は実は勝利だった、落胆ではなく希望のしるしだった、そのことを知って弟子たちは戻ってきたのです。戻ってきて、一度は失望したその場所から、今度は新たな希望を持って歩み始めることができたのです。ここに復活の主に出会った人の姿があります。復活の主に目が開かれた人の姿があります。目には見えなくても復活の主が共にいてくださることを知っている人の姿があるのです。
今日は日曜日、主が復活された曜日、今日も私たちはイースター、主イエス・キリストの復活を祝うのです。イエスは復活された!実に復活された!キリスト復活!実に復活!復活の主は今も生きて私たちと歩みを共にしてくださっています。目には見えなくても、主イエスの言葉が私たちの心の中にあるならば、そこで私たちも主イエスと出会っているのです。私たちは主イエスご自身の言葉によって、聖書の言葉によって主イエスに出会います。そして主イエスの言葉は私たちの心をも熱くします。その言葉は生きる力を、平安、安心を与えます。私たちの心を、また私たちの全てを支える力が主イエスの言葉にはあります。主イエスご自身にその力があるからです。私たちはその言葉を通して復活の主イエスと今日も出会うことができます。私たちにはもうすでにその言葉が私たちの手元にまで届けられています。この聖書の中にそれが詰まっています。私たちを燃やし生かし力づける言葉がもう私たちの手の中にあります。――復活の主イエスとの出会い、それがイースターの喜びであり恵みです。
もう一度、最後に申します。私たちが心燃やさねばと気負いつつ主の言葉を聞くのではありません。心燃えないむなしさを感じる中にありながら、その心を主のみ言葉にゆだね、明け渡していくところで、心燃やされていくのです。私たちの心を燃やすことのおできになる主は今確かに生きておられるからです。主は今生きておられる。主の御言葉に心燃やされましょう。
どうか望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン
「見えるようになりたい」 (ルカによる福音書18章31~43より)
江本真理牧師
+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。
今日の福音書の箇所には、イエスさまの三度目の受難予告に続いて、ある盲人の癒しの記事が記されていますが、これを通して読みますときに、盲人がイエスさまに向かって「主よ、目が見るようになりたいのです」と言った言葉がわたしの心を捕らえて離さないのです。「主よ、目が見えるようになりたいのです」。これはイエス様が「何をしてほしいのか」と尋ねられたその問いかけに対する盲人の答えです。このところを文語訳聖書で読んでみるとこうなります。「イエス問ひ給ふ『わが汝に何を為さんことを望むか』彼いふ『主よ、見えんことなり』」(41節)。「主よ、見えんことなり」。…これほどストレートに自分の願いをイエスさまに告げることができる、その姿勢・態度にわたしは一種の感動を覚えます。私たちにも願いはあります。こうしてほしい、こうなりたいという思いを持っています。けれども、その願い・思いをこの盲人のように素直に、ストレートに言うことができるでしょうか。自分ではこうしてほしい、こうなりたいと思っていても、しかし、心のどこかでそれは所詮無理なこと、あきらめなければいけないこと、どうしようもないこと、そんなふうに思っている節はないでしょうか。あるいは、そこまで悲観的には見ていないとしても、頭で理解できる範囲の中で、つまり自分に何ができるかという可能性を探るような思いで、何とか解決を見出そうとしていないでしょうか。
さて、最初にイエスさまの三度目の受難予告が記されています。「今、わたしたちはエルサレムに上って行く。人の子について預言者たちが書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する」(31~33節)。しかし弟子たちはまだこの主イエスの受難と復活の出来事がわかりませんでした。「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」(34節)。彼らの目には、イエスの受難と復活の出来事は隠されていた。見えなくされていた。そんな弟子たちの姿と対照的な形で、続いて、ある盲人の癒しの記事が記されるのです。
イエスさまはエリコという町に近づかれたとあります。エリコの町はエルサレムから20数キロばかりのところにあり、非常に近い。「今、わたしたちはエルサレムに上っていく」と言われたように、イエスさまはいよいよ受難の地エルサレムに近づかれるのです。その時「ある盲人が道端に座って物乞いをしていた」(35節)。ある盲人、彼についてどのような事情があったのか聖書は記しておりません。生まれつき目が見えなかったのか、あるいはもとは見えていたのに途中から見えなくなったのかもしれません。いずれにしろ、今その目の見えない人は、群衆が通って行くのを耳にしたのです。大勢の人が自分の前を通り過ぎていくただならぬ雰囲気、自分の目が見えない分、耳を通してそのただならぬ雰囲気を聞き取り、感じ取った彼は尋ねます。「これは、いったい何事ですか」。すると、ある者が「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせます。ナザレのイエス、彼のことは恐らくこの盲人も噂として聞いていたでありましょう。数々の不思議な業や奇跡を行った人物。そのナザレのイエスが通られる。彼は今このときしかないと思ったのでしょう。まさにこの瞬間に彼は自分のこれまで心の中で叫び続けてきた叫びを、声を大にして叫ぶのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。
「わたしを憐れんでください」。この叫びは今日の日課の直前に記されている「金持ちの議員」の話で、「ある議員がイエスに、『善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』と尋ねた」(18節)のとは違い、もうどうにもならない状況の中で、ただただ今自分の前を通り過ぎようとするイエスに、憐れみを求める懇願です。もはや、自分が「何をすれば」などと言うことはできない。むしろ自分ではもうどうにもならない、どうすることもできない。それを知っていればこそ、その自分の無力さの中で、ただただ外からの憐れみを乞い求める、そんな姿が伝わってきます。それは、イエスさまの「先に行く人々が叱りつけて黙らせようとした」にもかかわらず、そのようなことで意気消沈してしまうようなものではありませんでした。彼は「ますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた」のです。
このように必死に叫び続けるこの盲人の訴えを、どうしてイエスさまが見過ごしにされるでしょうか。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ11章9~10)とイエスさま御自身が弟子たちに言われたように、今、この必死に憐れみを乞い求める一人の盲人の叫び、心からの叫びに、イエスさまは足を止められます。彼を自分のそばに呼び寄せ、そして言われるのです。「何をしてほしいのか」。
イエスさまがベトザタの池で病人を癒されたとき「良くなりたいか」と尋ねられたのを思い起こします(ヨハネ5章1~9)。そのとき38年も病気で苦しんでいたその人は、「良くなりたいか」とのイエスさまの問いかけに、素直に「良くなりたいです」と答えることができませんでした。良くなりたいのは自明のこと、自分がずっと願い求めていたことである。ただその願いを実現するための手段がないのである。池の水が動くとき、その池に真っ先に入ればどんな病気も癒されると言われていたその池に、自分を入れてくれる者がいないのである。癒される方法はわかっていても、その方法を実行する手段が見つからないのである・・・。そのように訴えたのでした。
しかし今、この盲人は、イエスさまの「何をしてほしいのか」との問いかけに、「主よ、目が見えるようになりたいのです」とストレートに答えています。方法も手段も見あたらないし、わからない。自分の力ではどうすることもできない。しかしそうであるからこそ、すべてを今自分の前にいる主イエスにかけるしかない。すべてを委ねきって、憐れみを乞うしかない。ただ与えられるのを待つしかない。そういう自分の状況を知っていたからこそ、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と、自分の望んでいることをありのままに、ストレートに言うことができたのでしょう。今ここにいる主イエスにすべてを委ねて、自分の全存在をかけて、願い求めて行く姿勢。ただ主イエスのみに頼る姿勢。この姿勢こそが、イエスさまをして「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」(42節)と言わしめたのでしょう。そしてまた、自分の無力を知ればこそ、自分の側には何ら可能性がないことを知ればこそ、目が開かれた喜び、(再び)光を与えられた驚きと喜びから、神への讃美、ほめたたえが出てくるのでしょう。そして彼は主イエスに従ったのであります。
「主よ、目が見えるようになりたいのです」。一人の盲人のこの切実な願い、これはそうしてもらえたら嬉しい、そうなったらいいという程度のことではなくて、むしろ今私の前に立つあなたに、キリストにそうしてもらう他ないという切実な願いであります。あなたがこのわたしの目を開いてくださるのです。わたしに光を与えてくださるのです。あなただからこそそれができるのです。だからこそわたしははっきりと言います。「主よ、目が見えるようになりたいのです」。わたしの目を開き、わたしに光を与えてください!
このように、ただひたすらにイエスさまへと向かっていく姿勢、信仰の姿勢があるとき、イエスさまの言葉はわたしたち(の内)に力強く働いてくださるのです。そのような意味で、この癒された一人の盲人に示されている姿勢は、イエスさまから注がれる力をそのまま自分のうちに受け入れていく姿勢であると言えます。この彼の姿勢を見るとき、「祈り」について思います。
O・ハレスビーという、ノルウェーのルーテル教会の牧師、神学者が『祈りの世界』という本の中で、「祈り」についてこのようなことを書いています。「祈るとは心を開いてイエスをお迎えすることです」。・・・「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙示録3章20)。祈りの本質とは、わたしたちの内に入って来られようとして、わたしたちの心の扉を叩いているイエスさまを、私たちが心を開いて自分の内にお迎えすることだというのです。すると、わたしたちの内でイエスさまが良い働きをしてくださるというのです。昔から祈りは魂の呼吸と言われてきました。わたしたちの体に必要な空気は、わたしたちを四方から取り囲んでいます。空気は自然にわたしたちの中に入ってこようとしています。呼吸を止めることは、吸うことよりもはるかに難しいのです。口を開きさえすれば、空気は自然に肺の中に入ってきて、体全体に生命を与える機能を果たすのです。魂が必要とする空気は、いつも、どこでもわたしたちを自然に囲んでいます。神は多様で十分な恵みをもって、キリストにあってどこででもわたしたちを囲んでいます。ですから、わたしたちはただ魂(心)の扉を開きさえすればいいのです。そのように祈りは魂の呼吸であり、わたしたちの乾ききって打ちしおれた心にキリストをお迎えするための器官なのだと、そのようなことをハレスビーは言っています。
祈るとは心を開いてイエスをお迎えすることである。これはわたしたちに大きな示唆を与えてくれる言葉であると思います。祈りには、積極的に願い求めていくという面があります。祈りは神様から命じられていることであり、わたしたちも積極的に神様に祈り、願い求めていくことが大切です。そして確かにイエス様も、このように祈りなさいと言って祈ること(「主の祈り」)を教えてくださり、続けて、熱心に祈り求めることの大切さを説いて「求めなさい。そうすれば与えられる・・・」と言われたのです。けれども、これだけを知っているだけでは、いつの間にかわたしたちの祈りは自分勝手な思いやわがままを押し通すということにもなりかねません。そしてその祈り、願いがかなわないと、もうあきらめて願うことをしなくなってしなう、祈ることをしなくなってしまうということになってしまいます。ですから、熱心に祈り求める、必死に願い求める、というときの、その熱心さ、必死さには、自分にはどうすることもできないという自分の無力さを認めて、ただイエスさまの働きに委ねていく、心を開いてイエスさまを自分の内にお迎えするということが求められているのです。
今、聞いてまいりました「主よ、見えるようになりたいのです」との主イエスに対する答え、この率直な、ストレートな言葉も、どうしても・・・という熱心さ、必死さと共に、自分を開いて、自分の心を開いてイエスさまに委ねていく、イエスさまをお迎えしていく、そのような彼の姿勢を示す言葉なのです。そしてそのとき、「見えるようになれ」と言われるイエスさまの言葉が、わたしたちの内に力強く働くのです。わたしたちもこの主イエスに癒された盲人のような姿勢をもって、神に祈り、願い求めていくものでありましょう。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。」これが今年度の竹の塚教会の主題聖句です。
どうか望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。
アーメン