竹の塚ルーテル教会

Takenotsuka Lutheran Church

聖霊降臨祭(ペンテコステ)説教 2013年5月19日  

「聖霊きたれり」(創世記11章1-9節、使徒言行録2章1-11節より) 
江本真理牧師

花畑ペンテコステ用

+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

今日は聖霊降臨祭(ペンテコステ)です。これは「教会の誕生日」とも言われ、キリスト教会にとっては、降誕祭(クリスマス)、復活祭(イースター)と並んでお祝いされる大切な日です。

聖霊降臨。それは、復活したイエスさまが天へと昇られてから十日たったときのことでした。エルサレムの町は、五旬祭(ペンテコステ)という祭りでにぎわっていました。エルサレムに住むユダヤ人ばかりでなく、いつもは外国(他の地域)に住んでいるユダヤ人たちも、エルサレムの神殿に集まってくるのです。一方、イエスさまの弟子たちは、みんなで集まって祈っていました。「わたしが天に帰ったら、あなたたちに聖霊を送ります」とおっしゃったイエスさまの約束を信じて、「どうぞ聖霊を送ってください」と熱心に祈っていたのです。

そのようにして弟子たちが一つになって集まっているところに、イエスさまの約束されていたことが起こりました。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2章2-4)。そして、その場に集まってきた人々は、弟子たちが外国の言葉で神さまのことを話しているのを聞いてびっくりしました。そこには、いろいろな国や地域からやってきた人がいたのですが、どの人も、自分が住んでいる国や地域(故郷)の言葉で弟子たちが「神の偉大な業を語っている」のを聞いたというのです。

このように、この五旬祭(ペンテコステ)の日、弟子たちの上に、約束の聖霊、イエスさまが約束してくださっていた神さまの霊(聖霊)が下り、その聖霊の力に満たされて、弟子たちはさまざまな国の言葉で神の偉大なみわざについて語り出した、つまり神さまの福音を宣べ伝え始めたのです。そしてここに、聖霊の働きにより神の福音を宣べ伝え、証ししていく弟子たちの群れ、教会が誕生したのです。聖霊きたれり!激しい風が吹いてくるような音が聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、弟子たち一人ひとりの上にとどまった・・・不思議な現象ですけれど、直接目には見えない「聖霊」というものが送られる様子が、ここでは見聞きできる現象として起こっています。そして、この「激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ・・・炎のような舌が分かれ分かれにあらわれ、弟子たちの上にとどまった」というのは、神さまの息吹に満たされて、神さまの御手にとらえられた弟子たちの姿を示しています。

聖霊降臨(私たちに約束の聖霊が送られて、その聖霊の力に満たされる)というのは、言ってみれば、神さまが私たち一人ひとりに手を伸ばし、その手に私たちが直接とらえられるということ、その腕に抱かれるということです。聖霊というのは、私たちの弁護者、助け手、導き手と言われます。・・・子どもになすべきことを教え、正しく導いていこうとする親のような存在・・・。子どもが何もわかっていなくても、きちんとわかっている親に手を握られていれば大丈夫!子どもは親に手を握られていれば安心できます。子どものときに、親に手をつないでもらって安心した経験が皆さんにもないでしょうか。はっきり覚えていなくても、私たちにとってどこか懐かしい記憶、手を握られている安心感。あるいは、大好きな人、本当に信頼できる人に手を握ってもらったときに感じる安心、湧いてくる勇気、希望。私たちには、実際いろんな心配事、不安もあるでしょうけれども、どうか恐れないでください。今日この聖霊降臨日に、安心や安らぎ、希望、それらをもう一度取り戻しましょう。私たちの本当の助け手、導き手にしっかりととらえられているなら、私たちは何も恐れなくていいのです。

聖霊降臨というのは、何も特別な人たちにだけ起こったこと、起こることではありません。私たち一人ひとりに起こることです。すべての人に神さまは手をのばして私たちをとらえてくださる。私たちの手を握ってくださる。それが神さまの御心だからです。だから私たちは何も恐れなくてよい、安心してよい。

そして、私たちがそのようにしっかりと神さまに手を握られているのだとすれば、片方の手が神さまにしっかりと握られているのであれば、空いているもう片方の手で、すごくいいことがいっぱいできる。あらゆる壁を越え、どんな障害も憎しみも越えて握手することができる。それこそ、神の手を必要としている人を助けるために手を伸ばすことができる・・・

聖霊降臨というのは、教会の誕生日だと先ほど言いました。弟子たちの集いに聖霊がやどって教会が生まれた。それは、弟子たちの手をしっかりと神さまの手が捕まえてくださったときに、弟子たちはもう片方の手でいくらでも神さまの働きをすることができるようになったということでしょう。これが教会の出発点。そして、その働きの第一として、今日ご一緒に聞いている、あらゆる国の人々にその人々の言葉で福音が伝えられていくという出来事があります。私たちの間に存在するさまざまな壁や限界(文化や言葉の違い)が、聖霊の働きによって越えられていくのです。

さて、今日の旧約聖書の日課として読まれた創世記11章の「バベルの塔」の出来事にも触れたいと思います。

このバベルの塔の物語の背景にある神さまの意図は、人々を散らすことです。それは神さまの祝福の広がりを意味します。神さまの祝福が全地を満たすこと、それが神さまの御心なのです。しかし、ここには散らされまいと結束する人間たちの姿が描かれます。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言います。彼らは散らされまいと結束していくのですが、その結束は神さまを締め出します。神さまを締め出したところで、自分たちの思いだけで結束していこうとする。一つになろうとする。しかし、その「結束」はやがて「結託」へと変わっていくのだと思います。「結束(志を同じくする者が一つとなること)」それ自体は悪いことではないでしょう。しかし、神さまを締め出して自分たちの思いだけで「結束」しようとすると、それはいつしか「結託」になっていく。「結託」とは「不正を行なうためにグルになること」と辞書にあります。有名になる、自分たちの名をあげる、そのために自分たちに都合の悪いことは隠ぺいするようになり、自分たちと同じ考えを持つ者だけで結束し、結託し、自分たちの考えに合わない者たちは排除していく、切り捨てていく、そのようにして自ら取り返しのつかない事態を招いていくことになる私たち人間の姿というものが、ここに示されているように思います。これに対して、神さまは人々の言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられぬようにされたので、結果彼らは町の建設をやめ、そこから全地に散らされていったと言われています。

言葉を混乱させられ、全地に散らされた、ということは、一見、神さまの厳しい裁きに思えることですが、しかし、神さまの御心は、最初から人々を全地に散らすことにあったのです。そのようにして、神さまの祝福が全地に、地の果てに至るまで満ちることを神さまは望んでおられる。そうであるならば、ここで人々たちが全地に散らされたということは、神さまの大きな祝福のうちにあることだと言えるでしょう。そして、このバベルの塔の出来事が、神さまの御心に適ったことであり、神さまの大きな祝福のうちにあるということが、まさに「聖霊降臨」の出来事を通して確かにされているのです。

かつてバベルにおいて、バラバラにされたとされる言葉、そして全地に散らされた人々。その互いに異なる言葉や人々が、聖霊の働きによって一つにされていく。ただしそれは、皆がもう一度同じ一つの言葉を話すようになるというようなことではなくて、あらゆる国の人々にその人たちの言葉で、ただ一つの福音、神さまの偉大な御業が伝えられていくという形であったのです。地の果てまで福音が宣べ伝えられていく、さまざまな状況に福音が伝えられていく、そのために私たちの間に存在するさまざまな壁や限界(文化や言葉の違い)と思えるものが、しかし、聖霊の働きによって越えられていくのです。そして、そこでは、お互いの違いというものは宣教の妨げとなるものではなく、そうではなくて、福音の豊かさ、神さまの御業の偉大さ、恵みの大きさを証しするものとなるのです。

今日、聖霊降臨の主日に、私たちは自分の手が神さまによって今しっかりと握られていることを信じましょう。そうして、私たち自身のうちに聖なる霊が働いていることに気づかされていきましょう。たとえなお恐れや不安を抱えているとしても、あらゆる障害を乗り越え、壁を越えていくことのできる聖なる霊が、今私たちをしっかりととらえてくださっています。神さまの優しくも力強い聖なる御手が、私たち一人ひとりの手をしっかりと握ってくださっています。聖霊きたれり!このことを信じて歩みましょう。

どうか望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださるように。アーメン。

作成者: 竹の塚ルーテル教会

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