竹の塚ルーテル教会

Takenotsuka Lutheran Church

復活後第四主日説教 2013年4月28日

「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章31~35節より)
江本真理牧師

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+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

イエスさまは言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(34~35節)

今日は、このイエスさまが語られている「互いに愛し合いなさい」というメッセージについて、聞いてみたいと思います。

イエスさまが語られたこの言葉は、ご自分がこれから捕らえられて十字架に架けられていくことを知りながら、そのことが起こる前に、ご自分の愛する弟子たちに対して、これだけはあなたがたに伝えておきたいという強い思いの中でお語りになった言葉でありました。

イエスさまは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とおっしゃっておられます。ここに「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉があります。つまり、イエスさまがまず私たちのことを愛してくださった、私たちのことを愛してくださっている、そのイエスさまの愛を受けて、そのイエスさまの愛の中で、私たちが互いに愛し合うという生き方をしていくのだと言い残されたのです。

それでは、イエスさまはどのように私たちのことを愛してくださったのでしょうか。イエスさまの愛が最もよく表されているのは、イエスさまの十字架の出来事です。私たちのためにご自分の命をすら差し出してくださった、その十字架の愛です。

イエスさまは、ヨハネ福音書15章の「わたしはぶどうの木」とおっしゃった箇所でもこう言われています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15章12~13節)。

そのように、私たちを「友」と呼んでくださり、「友のために自分の命を捨てる」という、これ以上ない愛の姿を示してくださった。それがイエスさまです。では、イエスさまがそのように私たちを愛してくださるのは、私たちがそのように愛されるに足るほどに立派だったからでしょうか。

ここでローマの信徒への手紙五章(6~10節)を開いてみたいと思います。

「6実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。7正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。9それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。10敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」

ここにはイエスさまの十字架の愛が端的に言い表されています。どんなときに、つまり私たちがどんな状態のときにイエスさまが私たち愛し、私たちのために十字架に架かってくださったのか、そのことが記されています。三つ挙げられるでしょうか。

まず一つ目は6節です。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」。ここには「わたしたちがまだ弱かったころ」と書いてあります。自分で善を行うことができない弱さ、また誘惑に打ち勝つことのできない弱さを持つ、そういう「不信心な者」のためにイエスさまは十字架に架かって死んでくださったというのです。

二つ目は8節です。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。二つ目は、「わたしたちがまだ罪人であったとき」です。

そして三つ目は10節です。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」。三つ目は、私たちが神さまに敵対していた、敵対心を抱いていたときです。

つまり、私たちが立派だったから、神さまを信じるようになったから、イエスさまは私たちのことを愛してくださったのではありません。私たちがイエスさまのことを知るようになる前から、私たちが教会に行くようになる前から、いや私たちが教会に対して敵対心を持っていたり、あまり良い印象を持っていなかった、そのようなときから、そして私たちがまだ弱く、罪深い生活をしていた、そんなときから、イエスさまは私たちのことをちゃんと見ていてくださり、私たちのことを愛しておられたのです。

そしてそんな私たちを救うために、イエスさまは命を投げ出して、十字架に架かって死んでくださいました。今朝、イエスさまがおっしゃっている「わたしがあなたがたを愛したように」というのは、そういうことです。そしてイエスさまは私たちがまだ罪深かったときから、弱かったときから私たちのことを愛していてくださいました。これは言い換えれば、イエスさまは私たちの弱さも欠点も知りながら、そんな私たちの弱さや欠点でさえも、そのままに受け入れてくださったということです。

このようにイエスさまが私たちを愛してくださった。愛してくださっている。そのように私たちも「互いに愛し合いなさい」と言われます。つまりイエスさまが私たちの欠点も失敗もあるままに私たちを受け入れてくださったように、私たちもまた、欠点もあり、失敗もする、そのような相手を受け入れていくのです。

イエスさまはどうして「互いに愛し合いなさい」と何度も弟子たちにおっしゃったのでしょうか。イエスさまの最も身近にいた12人の弟子たち、そしてマルタやマリア、ラザロ、マグダラのマリア、そういった人たちだけであれば、一致団結し互いに受け入れ合うのは、つまりよく知る身内同士で互いに受け入れ合うということであれば、それは比較的実現しやすいことであったかもしれません。・・・しかしやがて初代教会の時代になると、不特定多数の大勢の人たちが教会にやってくるようになります。その中にはユダヤ人もいれば、ギリシア人もいました。ローマの役人もいました。いろいろな人たちが教会に来るようになる。イエスさまはそのことも見越した上で、弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と言い残されたのだと思います。そしてそのときに、お互いに違いがあることを認め合いながら、個性の違い、性格の違いがあることをお互いに認め合いながら、お互いに一致していくように、受け入れ合い、失敗があっても赦し合っていくようにと、そのためにイエスさまは「互いに愛し合いなさい」と何度もおっしゃったのだと思います。

このように「互いに愛し合いなさい」と言われている私たちです。イエスさまはこの私のために、この私の罪の赦しのために十字架に架かって死んでくださり、この私の罪をあがなってくださいました。しかし、このイエスさまの十字架は自分一人だけのものではありません。自分が受け入れられないあの人のためにも、やはりイエスさまは十字架に架かって死んでくださったのです。この十字架の愛を本当に受け止めるところで、私たちはこんな自分が受け入れられているという感謝と喜びの気持ちから、また、人を受け入れることができる者とされていくのです。

そして、そのように私たちが互いに愛し合うとき、互いに受け入れ合い、赦し合っていくとき、私たちがイエスさまの「弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)と言われていることも大切です。私たちがイエスさまの弟子であること(イエス・キリストが今も生きて働き、私たちを導いていてくださること)は、互いに愛し合うという私たちキリスト者の生き方を通して表されるのです。ヨハネの手紙一にはこう記されています。

「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(Ⅰヨハネ4章12節)。

イエスさまが弟子たちに、そして私たち一人ひとりに、これだけは伝えておきたいという思いの中で語ってくださった言葉――互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。――この主の御言葉に生かされ、この主の御言葉に生きる私たちでありたいと願います。

どうか望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

作成者: 竹の塚ルーテル教会

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