「恵みの約束を果たすために」
(ルカ福音書19章28~40節)
江本真理牧師
+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
今日からアドヴェントに入りました。今朝は、教会学校の子どもたちによるクリスマスツリーの飾り付けが行われ、聖壇の上のアドヴェントリースの蝋燭にも一本明かりが灯されています。教会では、クリスマスの前の四週間を「アドヴェント」、日本語では「待降節」と呼んでいます。これは、主の降臨を待ち望む時、主イエスがこの世に降りて来られ、私たちの間に臨在してくださることを待ち望む時です。
主の降臨ということには二つの意味があると言えます。一つは、救い主イエス・キリストがこの世にお生まれになったこと、この世に来てくださったクリスマスの出来事です。そしてもう一つは、その主イエス・キリストが再び来てくださるという、主の再臨を待ち望むことでもあります。かつて主イエスがこの世に来られたクリスマスの出来事を思い起こしつつ、再び主イエスの来られることを私たちは待ち望むのです。
今朝の第一日課では、「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る」(エレミヤ33章14)と言われています。主が私たちのために恵みの約束を果たしてくださる日が来る。主が約束されたことですから、確かにそれは実現します。この確かさに希望をおいて、私たちのために成し遂げられる神の恵みと憐れみに満ちた救いの出来事の到来を待ち望む。それがアドヴェントです。
このアドヴェントの第一週に、私たちに与えられております聖書の御言葉は、主イエスのエルサレム入城の場面です。イエスさまのエルサレム入城、これはイエスさまがその伝道活動の終わりに、いよいよ自らが十字架にかけられる場所、エルサレムへ入って行かれるという場面です。そういうわけで、実はこのエルサレム入城の記事は、イースター前の受難節(四旬節)でも読まれる箇所です。つまり、私たちはクリスマス前のこのときに、まず十字架へと向かわれるイエスさまの姿に目を向けるようにされます。さらにこの待降節の間の典礼色は、これも受難節(四旬節)と同じ紫となっています。「紫」という色は「悔い改め」を意味します。この色にも示されているように、クリスマスを迎えようとする今このとき、私たちはただクリスマスの雰囲気に浮かれてばかりいるのではなく、私たちが自らの歩みを振り返り、欠け多き器である自分の姿を真摯に見つめ、悔い改めつつ、私たちのために十字架への道を歩まれ、その十字架によって私たちの罪を贖い、救いを成し遂げてくださるために、キリストがお生まれになったという、そのクリスマスの出来事の意味を深く心に留めながら、その恵みに与かっていくことが求められているのだと言えます。
では福音書の御言葉に目を向けましょう。これは今申し上げましたように、イエスさまがこの地上での生涯の最期に、十字架にかかるためにエルサレムに入っていく場面です。十字架の死をとげることになるエルサレムへと、今イエスさまは自らが人々の先頭に立って進んでいくのです。「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムへ上って行かれた」(28節)と言われています。十字架の苦しみの待つエルサレム、しかしイエスさまは「先に立って」、そのエルサレムへと進んでいかれるのです。
その先立つ主イエスに弟子たちが続きます。ここには、私たちキリスト者の姿、教会の姿が示されていると思います。私たちの歩みの先頭にはいつもイエスさまがいてくださる。イエスさまが私たちに先立って進んでいかれるのです。たとえその歩みが困難に向かうものであったとしても、何よりイエスさまがその困難に向かって私たちに先立ち進んでいかれるのです。それはまた、私たちが直面する困難な状況、そこでの苦しみや悲しみといったものを、私たちに先立ってまずイエスさまが受けてくださっているということです。私たちの悩みも苦しみも、イエスさま自ら先頭に立って負ってくださる。私たちが負うべき十字架も死も主が先立って負ってくださる。そして、主は死者の中から復活され、甦りの初穂となってくださいました。この恵みにイエスさまの後に従っていくすべてが同じくあずかることができる。ここに私たちの希望があり、喜びがあります。
私たちは困難に出会い、失望を覚えることもあります。深い悲しみの中に置かれることもあります。けれども、そのような私たちの歩みには実はイエスさまがいつも先立ってくださっているのです。イエスさまが力強く私たちの先頭に立って進んでくださっている限り、私たちの歩みはたとえどのような状況に置かれても、その状況を突破して前進していける。そう信じて歩みつづけてきた、そして今も歩みつづけているのが教会の群れであり、キリスト者なのです。
さて、イエスさまがいよいよエルサレムに入っていかれるそのとき(37節)、弟子たちはこれまでにイエスさまがなさった数々の奇跡、いやしを思い起こしながら、喜びにあふれ、声高らかに讃美し始めます。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」。
この讃美は、主イエスのために歌われたものです。また、主なる神に栄光を帰している歌です。つまり、この讃美の歌声はイエス・キリストと父なる神をたたえているのです。これは大切なことです。私たちにとっての救いとは、神が神とされること、神が神としてあがめられることです。私たちもこの世もすべては神によってつくられ、神のご支配のもとにあるからです。主の祈りの最後も、「御国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです」という言葉で結ばれます。神に栄光を帰すこと、それが讃美です。それは、神さまがなさる御業に感謝して、神さまをたたえることです。力ある神が、いつも私たちと共にいて、私たちの救いを成し遂げてくださるのだとしたら、これ以上の喜びがあるだろうか、そう信じるところに讃美の歌声は高らかに響くのです。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」。
この弟子たちの歌声をファリサイ派の人々がたしなめたとき、イエスさまは言い返しておられます。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」。もしも今、この弟子たちが何らかの仕方で無理やり黙らせられるということが起こったら、こんな口をきくはずがないと思うような石までもが、その代わりに歌を歌うだろうというのです。つまり、それほどに、この歌はどうしても歌われなければならないものなのだと、イエスさまがここで言われたことになります。
しかし考えてみますと、この40節が伝えるイエスさまの言葉は不思議な言葉ではないでしょうか。私たちはよく知っているのですが、ここで見事な讃美を歌ったかもしれない弟子たちが、数日のうちにこのイエスさまのことを捨てるのです。そういう出来事がこの後に続こうとしています。イエスさまはそれをよく知っておられたでしょう。そのこと一つ考えてみましても、この弟子たちの歌う讃美は全く頼りないというか、あてにならない、気まぐれなものであったと言われても仕方のないものでありました。しかしイエスさまはそのような弟子たちの歌でさえ、絶対にこの歌を止めるわけにはいかないと体を張って守ってくださろうとされたのです。弟子たちは自分たちの歌声が退けられ、止められるならば、石までもが叫ぶなどとは、それほどまでに自分たちの歌が深いところから生まれてくる、やむにやまれぬ歌であるとは考えていなかったのではないでしょうか。お前はあのイエスの仲間であったのではないかと言われただけで、驚いて否定し、逃げ隠れた弟子たちが歌っている歌です。自分たちが歌を歌っている最中に、イエスさまがその歌を止めさせまいとしておられたなどとは夢にも思っていなかったでありましょう。
ですからこのイエスさまの言葉、「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」との言葉は、ここで実に深い意味を持っていることを思わされます。それほどに頼りない弟子たちの歌を、イエスさま御自身がどんなに深い思いをもって聞いておられたか。この歌は歌われなければならない。これは、どうしても歌われなければならないものなのだということをイエスさまは知っておられたのです。自分たちの救い主(王)を待望するやむにやまれぬ思い、その思いを、イエスさまは弟子たちが思っているよりも、もっと深いところで見て取っておられたに違いないのです。だからこそ、イエスさまはこの歌を止めさせてはならないと体を張って守られたのです。この讃美の歌声を止めてはならない。たとえその数日後に自分から離れていくことになる弟子たちの歌声であっても。自分では何をしているのか、自分の歌っている歌がどのような意味を持っているのか、実際のところ本当にはわかっていない弟子たちの歌声であっても・・・それでも主イエスはそれを良しとされ、その讃美の歌声を守ろうとされたのです。
ここに今日私たちが聞く福音があります。私たちのイエスさまへの信頼、またイエスさまに従っていこうとする行為、それは神さまの目にはいつも不十分で、ときには的外れなものであるかもしれません。しかしそんな私たちのつたない信仰、不十分な行為の中にも、イエスさまは私たちの神への思いを深く見て取ってくださるのです。私たちが神さまのことを思うその思いよりずっと強い思いで、神が私たちのことを御心に留めてくださっているのです。私たちの信仰がどんなにつたない小さなものであったとしても、まだまだ未熟であったとしても、それでも主イエスに向き合い、従っていこうとする私たちの行為、その行為の深いところにある私たち人間のやむにやまれぬ主への思いを汲み取ってくださり、それをイエスさまは良しとしてくださるのです。
そうであるならば、私たちはこの恵みに感謝しつつ、今の私たち自身のあるがままの姿で精いっぱい主を讃美し、今のあるがままの姿で主に仕えてまいりましょう。イエスさまがいつも私たちの歩みに先立ってくださいます。つたない信仰ながらもやむにやまれぬ思いを抱えて生きるその私たちの思いをイエスさまは受け止めてくださっています。私たちを救ってくださるという神の恵みの約束はイエス・キリストによって確かに果たされるのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン