竹の塚ルーテル教会

Takenotsuka Lutheran Church

聖霊降臨後第19主日礼拝説教 2012年10月7日

「塩を持って生きる」
(マルコ福音書9章38~50節より)
江本真理牧師
+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

先ほどご一緒に朗読いたしました福音書の箇所、その最後にこう記されています。「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」(50節)。
自分自身の内に「塩」を持つ。「塩」というのは私たちが生きていく上で欠かすことのできないものです。また、「塩」は清めのために、食べ物の保存(腐敗を防ぐために)、また味付けにも用いられ、料理の味を引き締めます。いずれも自らが主役になるというより、むしろ脇役としての働きです。食べ物の保存にしても味付けにしても、塩がその持ち味を発揮するのは、物に溶け込んでいくときです。自分を際立たせるものではなく、誰かを際立たせる、そういう存在です。「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」。イエスさまはそうおっしゃるのです。


今日の箇所は先週の箇所に続いています。先週の箇所では、弟子たちが、自分たちの中で「だれがいちばん偉いか」と議論し合っていたことが記されていました。人が集まるところ、その中でだれがいちばん偉いのか、だれがいちばん上なのかというのは気になるものです。また自分はだれより上で、だれより下なのかということを気にすることもあるでしょう。会社であれば上司がいて、部下がいる。学校であれば教師と生徒という関係があり、先輩がいて後輩がいるわけです。そういった関係は、その組織や集団の秩序が保たれるために必要なことでもあります。・・・けれども「だれがいちばん偉いか」ということを考え始めるとき、それはしばしば仲たがい(不和)の原因になります。お互いに相手を中傷しあい、全体の調和を乱してしまうことがあるのです。そこにあるのは調和ではなく分裂です。平和ではなく争いです。しかし、ここでイエスさまが弟子たちに求めておられるのは「互いに平和に過ごしなさい」(50節)ということです。先週から続く一連のイエスさまの教えは、この「互いに平和に過ごしなさい」ということにつながっています。


先週の箇所で、イエスさまは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(三五節)と言われました。これは何を意味するのかと言えば、イエスさまはここで、偉くなることを否定しているというより、「自分の方が偉いと思う人間の心」から生ずるさまざまなことを問題としているのだと思います。「自分の方が偉いと思う人間の心」、仕えることより仕えられることを望んでしまう人間の心、相手の後になるより前になりたいと望む人間の心、相手に従うよりも相手を従わせたいと望む人間の心、相手の言うことを聞くよりも自分の言うことを聞かせたいと望む人間の心、そういった人間の心から生じてくることがらを問題としているのです。・・・たとえ自分は相手に仕えていると思っているときでさえ、相手が自分の言うことを聞いてくれたり、受け入れてくれるときには喜んで仕える(従う)けれども、そうではないとおもしろくない。これも一見人に仕えているようで、実はそうではないのでしょう。相手と意見が合わないとき、相手に腹が立ってしまうとき、相手のほうが悪いし自分勝手ではないか…こちらが下手に出たらつけあがって…といった気持ちになることもあるわけです。しかしお互いが自分の方が偉い(上だ)という思いを持ちつづけるならば、そこには不和が生じ、争いや分裂が絶えないでしょう。…自分に従わせよう、自分の方が正しいという思いは、無意識のうちにも働いてしまうものです。そして無意識のうちにも、自分に従わない、自分とは考えの違う相手を非難したり、排除してしまおうという思いが出てくるのです。


今日の箇所では、主イエスの名を使って悪霊を追い出している(病気の癒しをしている)者がいたというのですが、その人が弟子たちに従わなかった(つまり、その人が弟子たちの意向に沿わなかったということでしょう)。そこで弟子たちはそんな勝手なことはしてはいけないということで、それをやめさせようとしたというのです。このとき、弟子たちには既に、悪霊を追い出し、病人をいやすことができる力・権能がイエスさまから与えられていました(6章7以下)。弟子たちは主イエスの名を使って悪霊を追い出す権利とでも言うべきものを、イエスさまから直接授けられていたわけです。しかし今その弟子たちに従わない者が勝手に同じような行為をしている。弟子たちの仲間でないものがそうしている。そのことをイエスさまに告げています。しかしイエスさまがおっしゃるのは、たとえ自分たちに従わない、自分たちの仲間でないからといって、それを理由に(自分たちの仲間にならないということを理由に)その人を非難したり、排除してはならないということです。・・・「逆らわない者は味方なのである」(40節)と言われるのです。


さらに、自分の方が偉い、自分の方が正しい、自分に従わせようといった思いから出てくることとして、小さい者たちをつまずかせてしまうということが語られています(42節以下)。私たちは、弟子たちのように、あの人は我々に従わないからあの人は間違っていると批判してしまうことがあります。けれども、本当に私たちはそんなに正しいのでしょうか。自分はいつも正しい、立派だと胸を張って言える人がいるでしょうか。さすがにそんなことは言えないと誰もが思うでしょう。しかしそれと同時にまた、さすがにいつも自分が正しいとは思わないけれど、少なくとも自分にはあの人よりも知識があるし、経験もある、そういう面ではいくらか正しい判断ができるはずだと思うかもしれません。自分より未熟だと思える相手、まだまだわかってないなと思える相手を従わせようとし、従わなければ非難する。そうして小さい者たちをつまずかせてしまう。そういうことが私たちの間に起こってしまうことを、イエスさまは見ておられるのです。
どんなに成長しても、誰にでも未熟な部分はあるものだと思います。また誰にでも私たちには皆、幼いころがあったのです。今自分が批判しているような人たちと同じようなことをしていたことがあったかもしれない。しかし、人はそこを通りすぎてしばらくすると、そんな自分の姿を忘れるものです。自分も若い頃は恥ずかしいくらい何も知らず、未熟であった、しかしそこを通りすぎてしばらくすると、いまどきの若い者はという思いが出てきます。自分が新人の頃は、今までこんなひどい新人はいなかったのでは、と思うほどだったのに、しばらく年月が経つと、新人を見てこんなことも分からないのかと思ってしまう。自分が子供の頃はあまりいい子ではなかったのに、手のかかる子供をみて、こんな子は見たことがないと思ってしまう。


未熟な人を責めているけれど、あなたも昔は同じだったのではないか、いや、もっとひどい部分もあったかもしれないでしょう・・・。今は、本当に本物になったの・・・。イエスさまは私たちにそう問い返されるのです。そして、人を躓かせる者は、大きな石臼を首にかけられて海に投げ込まれるほうがよい(42節)、イエスさまはそう語ります。
私たちが聖書を理解し、信仰を深めていく道のりに、完成はありません。これで自分はもう完璧ということはありません。皆が教えられ成長していく途上にあるのです。その途上で、あっちは偽者だ、自分は本物だと、どうして言い切ることができるでしょう。だれも十分に立派な人にはなれません。人をつまずかせてしまうことのある未熟なものです。また、このことを真摯に受け止めていくならば、人を躓かせてしまう自分に自分自身が躓いてしまう私たちです。人を躓かせてしまう自分自身の未熟さに嫌気がさし、自分を責めてしまうのが私たちでもあるのです。
けれどもキリストは未熟なものを捨てない。これが福音です。私たちが本物だから、私たちが完璧なものであるから、キリストは私たちを見捨てず、私たちを受け入れてくださるのではありません。私たちが未熟なものであるからこそ、キリストは私たちをお見捨てにならないのです。私たちを見捨てる代わりに、キリストご自身が私たちの負い目(未熟さ)をその身に負って、私たちのために十字架の苦しみを受けてくださったのです。このキリストの十字架に、私たち一人ひとりに対する神さまの愛が示されています。未熟なものである私たちを、未熟なものであるがゆえに見捨てず、私たちのためにご自分の命を差し出してくださった方、それが私たちの神であり、主イエス・キリストなのです。


最後にもう一度50節の御言葉に目を向けましょう。「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」。最初に、塩というのは私たちが生きていく上で欠かすことのできないものであり、また塩は自らが主役になるというより、むしろ脇役としての働きをする、食べ物の保存にしても味付けにしても、塩がその持ち味を発揮するのは、物に溶け込んでいくとき。自分を際立たせるものではなく、誰かを際立たせる、そういう存在だということを語りました。・・・私たちが生きる上で欠かすことのできないもの、私たち(の心が腐敗してしまわないように)を清く保ち、私たちに仕えて私たちを生かしてくださる存在・・・、この「塩」とはまさにイエス・キリストご自身のことだと思わされます。さらに言えば、キリストの十字架の福音、これこそが私たちが自分自身のうちに持つべき「塩」なのです。


ですから、自分自身の内に塩を持つ、とは、まず私たち自身がこのキリストの十字架の福音を受け入れるということ、そして私たちがそのキリストの十字架の愛に生きることです。未熟なものである私たちを、未熟なものであるがゆえに見捨てず、私たちのためにご自分の命を差し出してくださった、このキリストの愛に生きるのです。しかも、これは自分だけそうであればいいということではありません。「そして、互いに平和に過ごしなさい」と言われるように、お互いの関係の中で塩を持つこと、すなわち、教会の交わりの中で互いにキリストの十字架の福音に生きていくことが求められているのです。「自分自身の内に塩を持ちなさい」という部分は、英訳ではHave salt in yourselves.となっていて、その意味合いは「あなたがた自身の間に塩を持て」ということです。この場合、それは「塩を分け合う」ことを指し、それは一緒に食べることを象徴しています。つまり、共に福音を聞き、それを互いに分かち合いながら、交わりと平和の中で生きよ!ということなのです。
「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」。自分自身のうちに持つ「塩」が見かけだけ(外見だけ)のものになってしまうことのないように、今、また新たな思いをもってこの主イエスのみことばを受け取りましょう。

どうか望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。

作成者: 竹の塚ルーテル教会

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