竹の塚ルーテル教会

Takenotsuka Lutheran Church

待降節第2主日説教 2011年12月4日

「イエス・キリストの福音の初め」

(イザヤ40章1~7節、マルコ福音書1章1~8節)

江本真理牧師

 +私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。
今朝の福音書はマルコ福音書の第1章1節からのところです。このマルコ福音書には、イエス・キリストの誕生という、いわゆるクリスマスに関する記事はありません。マタイ福音書であれば、最初に旧約からの長い系図が記され、その長い歴史のつながりの中で主イエスが誕生したということを語ります。また東方から占星術の学者たちがはるばる旅をして幼子イエスを拝みに来た、といったことが記されています。また、ルカ福音書にも、私たちがよく知るキリスト降誕の物語(ベツレヘムの家畜小屋、羊飼いたちへの知らせ等々…)が記されています。しかもルカ福音書は、洗礼者ヨハネ誕生の予告から書き始められています。ヨハネ福音書は、大変有名な「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」という、いわゆる「ロゴス讃歌」と呼ばれる、非常に荘厳で格調高い響きをもって書き始められておりますが、この讃歌の中でも「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と記されており、マタイやルカが記す物語的な語り口ではありませんが、確かに主イエス・キリストの受肉・誕生という、クリスマスの出来事を語っています。

けれども、今朝私たちが開いておりますマルコ福音書には、そういった主イエスの誕生の記述はありません。主イエスはいきなり荒れ野に登場してきます。もう少し正確に言いますと、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という書き出しに続いて、預言者イザヤの書に書かれている預言の言葉が告げられます。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。“荒れ野”で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」と。そして、そのとおり、洗礼者ヨハネが“荒れ野”に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた。そのヨハネのもとに、荒れ野にいた洗礼者ヨハネのもとに主イエスがやって来られる。主イエスは荒れ野に登場される。・・・つまりマルコ福音書は、「荒れ野」というモチーフのもとで、私たちに救い主(メシア)イエス・キリストの到来を伝えようとしているのです。

荒れ野が主イエス登場のモチーフとなっていると言いましたけれども、荒れ野といいますのは、実は私たち日本人には少々わかりにくいものです。わかりにくいといいますのは、日本は緑豊かな自然の中にあり、荒れ野と呼ばれるような荒涼とした場所・地域がありませんので、実際に聖書に登場する地域を訪れ、その空気に触れてみなければ、なかなか具体的にイメージをふくらましにくいということがありますけれども、単にそういったことだけではなくて、ユダヤの人々にとって「荒れ野」というのは特別な意味を持っており、旧約聖書のさまざまなエピソードと結びついてイメージされているものなのです。

まず、そこは、人類最初の罪を犯したアダムとエバが追放された場所であります。エデンの園と呼ばれるあの楽園とは異なって、いばらとあざみが満ちた世界です(創世記3章18節参照)。またそこは、カインとアベルの物語(創4章)―兄のカインが弟のアベルを殺してしまうという、これまた人類最初の殺人が行われた―が示しているように、弱肉強食の論理が支配し、弱者は虐げられ、押しつぶされていく世界です。そしてまたそれは、エジプトから脱出したイスラエルの人々が、約束の地にたどり着くまで旅をしなければならなかった、食べ物も水もない苛酷な世界です。そしてさらにまたそれは、主なる神に背を向けて偶像礼拝に走ったために、精神的に枯渇してしまったイスラエルの人々の姿をシンボリック(象徴的)に表すものでもあったのです。たとえばアモス書にはこう記されています。「わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へと巡り/北から東へとよろめき歩いて/主の言葉を探し求めるが/見出すことはできない。その日には、美しいおとめも力強い若者も渇きのために気を失う」(8章11~13節)と。ここで語られている飢えとは、単に人の体を支える食べ物(パン)や水がないということではなくて、主の言葉を聞くことのできぬ飢え、人の心を真に満たすものが与えられず、精神的に全く飢え渇いてしまっている、そういう状態を言っています。そしてこれもまた「荒れ野」なのです。

このように、ユダヤの人々にとって旧約聖書のさまざまな事柄と結びついたイメージや意味を持つ「荒れ野」ですが、一言で言うならば、聖書の世界での荒れ野とは、人間のエゴイズムと欲望に支配された死と闇に覆われた世界を意味していたのです。

その荒れ野に、今、イエスが登場される。人間のエゴイズムと欲望に支配され、死と闇に覆われた世界の只中にキリストは来られる。これが、荒れ野のモチーフを用いて主イエスの登場を知らせるマルコ福音書が、私たちに告げようとしていることです。

では、その荒れ野に登場される主イエスとはどのような方であるのか。私たちは主イエスを紹介する洗礼者ヨハネの言葉に注目しましょう。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。ヨハネは人々に向かってはっきりとこう言いました。「わたしよりも優れた方が、後から来られる」(7節)。彼はイエスが力に満ちた方であることを強調するのです。「優れた」というのは、「より力がある」(原文は「イスクォー」:「能力のある、力のある」)ということです。つまり、「後から来られる方は、わたしよりも力ある方である」、そう力強く宣言しているのです。そして、自分は「かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と言いました。履物のひもを解く務めを与えられた奴隷にも値しないのです。主イエスがいかに高い存在か、いかに力ある方であるか、それをヨハネはここで人々に告げ知らせたのです。「優れた方」、本当に「力ある方」、そういうことを繰り返し語りながら、ヨハネが人々に伝えようとしたこと、私たちに告げ知らせようとしていること、それはこういうことです。つまり、これから来られる方、力あるイエス・キリストというお方は、罪によって死と闇に覆われてしまっているこの世界、自らの欲望に執着し神から離れてしまったがゆえに、心も体も飢えと渇きにさらされ、殺伐とした全く荒れ果ててしまっているこの世を、もう一度新しく創造する、そのような力をもったお方であるということなのです。

実は、このマルコ福音書の一章には天地万物の再創造のテーマが流れていると言われます。「神の子イエス・キリストの福音の初め」という冒頭の言葉は、「初めに、神は天地を創造された」という創世記の冒頭の言葉に呼応しています。また天地創造が「神の霊」の働きと共に開始されたように、主イエスは聖霊に満たされており、「聖霊」によって私たちに愛を注ぎます。実にイエス・キリストは、無から天地を創造された神、闇の中に光を与えられた神と同じように、死と闇に覆われた荒れ野に新しい命の息吹、新しい命の輝きを吹き込んでいくのです。

これがマルコが伝える「神の子イエス・キリストの福音の初め」であります。私たちの救い主として来られたキリストの誕生、福音・喜びの知らせの始まりを荒れ野に登場した主イエスの姿に見ているのです。最初に申し上げましたように、マルコ福音書には幼子のイエスさまが誕生したというクリスマスの直接の記事は記されておりません。しかし、神が人となって私たちのもとに来てくださったというクリスマスの出来事の意味、私たちの間に来られて、死と闇に覆われた荒れ野に新しい命の輝きを回復してくださる、私たちの荒れ野のような現実の只中で飢え渇きを覚えて苦しむ私たちに、尽きることのない恵みと愛を注いで命の潤い、魂の潤いを回復してくださる、その福音の喜びが確かに告げられているのです。

神の子イエス・キリストの福音の初めは「荒れ野」であった。救い主イエスの福音は「荒れ野」から始まった。「荒れ野」で高らかと宣言された。私たちのこの世で、暗く悲しい出来事の絶えないこの世の中、今なお争いが続き平和からはほど遠いと思われるこの世の中、人々のいがみ合いが激しさを増す殺伐としたこの世の中、世の中の動きがどこもかしこも潤滑油を失った機械のようにキーキーと音をたててきしんでいるような、まさに潤いをなくした荒れ野のような世の中です。そんな世の中で、私たち自身もまた生きにくさを感じ、息苦しさを感じ、満たされない心の渇きを絶えず覚えて右往左往している。そうして、いつしか私たちの心にも潤いがなくなり、愛もなくなり、まったく荒れ野のようになってしまっているのです。

しかし、神の子イエス・キリストの福音はその荒れ野に始まる。キリストは荒れ野に来られる。荒れ野のようになってしまっているこの世に、私たちの心の荒れ野にキリストは来られる。まさに、今この私たちが生きている現実の只中でその救いのみ業を始められるのです。だから洗礼者ヨハネは呼びかけるのです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と。今私たちは自分自身のもとにキリストを迎える準備をするのです。私たちの荒れ野にキリストをお迎えする道を備えるのです。私たちの荒れ野にキリストが来られ、私たちを新たにしてくださる、そのための備えをするのです。私たちの心と思いとを神に向けて開く、それが私たちに新しい命への道を開くのです。

最後にイザヤ書の預言の言葉を聞きましょう。「主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。/谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。/主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。」(イザヤ40章3~5節)。

 

どうか望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたに望みを溢れさせてくださるように。アーメン

作成者: 竹の塚ルーテル教会

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