竹の塚ルーテル教会

Takenotsuka Lutheran Church

四旬節第三主日説教   2011年3月27日 「いのちを与える水」

(ヨハネ福音書四章五~二六節)

江本真理牧師

+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

今朝の箇所には主イエスとサマリア人のある女性との出会いが記されています。これはヨハネ福音書だけに記されているものです。ここに登場してくるサマリアの女性にはいくつかの顔がありました。そのことはイエスさまとの会話の中で明らかになっていきます。一つには、イエスさまと向き合ったときの彼女には、ユダヤ人と対立するサマリア人としての顔があります。九節「すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」

そして更に別の顔もあります。それは、どういう事情があったのかは記されていませんが、彼女が何度も結婚を繰り返すことになり、今は夫ではない男性と暮らしている、という暗い過去と悲しい現実を持つ一人の女性としての顔。一八節で「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」とイエスさまが彼女について言っておられる通りです。

そしてもう一つ、そういった経歴によって彼女は、町の人々から白い目で見られ、疎外されていたことが想像されます。そんな孤独な一市民としての顔もあったでしょう。一五節に「女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と記されています。彼女が「ここにくみに来なくていいように」と言うのは、できることなら同じ町の人には、誰とも会いたくなかったからだとも考えられます。ですから彼女は人目を避けて、誰もそんな時間には水を汲みになど来ない暑い昼間に井戸にやってきたのです。誰にも会わなければ、彼女は普通の“水を汲む女性”です。彼女の暗い過去も関係ありません。彼女はそんなふうに人目を避けて井戸に来ていたのです。

ですから、きっと井戸端に一人の男(イエスさま)が座っているのを見て、どうしてこんな時間に人がいるのだろう、と驚いたことでしょう。でもすぐに安心したと思います。あの人は見たところユダヤ人だからサマリア人の自分とは関係ないし、私の過去を知らない、と。しかしイエスさまは彼女に「わたしに水を飲ませてください」と声をかけられます。ユダヤ人と長年対立してきたサマリア人ということなど、まるで関係ないかのように、イエスさまは彼女に接していかれるのです。

そこからイエスさまは、彼女との会話を通して、彼女がつけていた仮面(というか、心の鎧)を取り去っていかれます。・・・最初は「水を飲ませてください」と自らが渇きを覚える者として彼女に相対しながら、その後のやり取りの中で、実は彼女自身がどうしようもない渇きを覚えている、しかも心の中になんともしがたい魂の渇きを覚えている者であることを明らかにしていかれます。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と彼女の心にある叫びを引き出していかれるのです。

するとイエスさまは、それまで水について会話をしていたのに、突然「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われます。おそらく彼女が常に隠し、最も触れてほしくないと思っていたところにイエスさまは触れていかれます。「あなたの夫を呼んで来なさい」と。…このとき何かが彼女の心、魂に触れたのでしょう。そこで彼女は自分を偽ることなく、正直に「わたしには夫はいません」と打ち明けました。ここで彼女は本当のことを言わないで済ますこともできたはずです。「あかの他人、しかもユダヤ人のあなたにはそんなこと関係ないでしょう」と突き放したり、「夫は仕事中ですから無理です」と嘘をついて偽ることもできたでしょう。しかし彼女はイエスさまに本当のことを話します。するとイエスさまは言われます。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」と。ここでイエスさまは彼女を責めたり、叱ったりするのではなく、「あなたはありのままを言った」と、サマリアの女性を受け入れていくのです。

私たちもそれぞれさまざまな顔を持っているものだと思います。その中で、おそらく自分が一番隠したくなる顔が本当の自分なのだと思います。あのアダムとエバも善悪の知識の木の実を食べた後、裸の姿を恥ずかしいと思い、イチジクの葉で体を隠しました。私たちが隠したくなるもの、それが裸の自分、ありのままの自分です。本当の彼女の顔、ありのままの彼女は、五人の夫がいたが、今は夫でない男性と暮らさずにいられない、そんな痛みや弱さ、悲しみを抱えた姿です。こっそり井戸にやってくるほど、なんとか隠したかった暗い過去や悲しい現実を持つ彼女。しかし彼女はその顔、ありのままの自分をイエスさまの前にあらわしました。そして、このことが彼女の生活を、命そのものを大きく変えていくのです。

○すべての仮面を脱ぎ去ることこそ、まことの礼拝

彼女は、自分のことをすべてご存知であり、またありのままの自分を受け入れてくださるこの方はただのユダヤ人ではないことに気づかされていきます。一九節で彼女は言います。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」。そしてこのような聖なるお方は自分たちサマリア人にはふさわしくない、とでも思ったのでしょうか。続けてこう言うのです。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(二〇節)。確かにサマリア人にはサマリア人の礼拝する場所、ゲリジム山に建てた神殿があり、そしてユダヤ人にはエルサレムの神殿がありました。しかしイエスさまは礼拝する場所であるとか、民族というものを超えたところにまことの礼拝がある、と言います。彼女が、そして私たちがこだわるさまざまな顔、仮面を取り去った時に本当に神と向き合うことができると言うのです。

ここで本当の礼拝が知らされます。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」(二一~二三節)。確かに神はユダヤ人を神の民として選びました。そのようにして人類の救いの歴史は始まったけれども、もはや民族や場所、そういったもろもろの区別や壁を越えて、すべての人が神の救いに招かれている、と告げるのです。

そしてその礼拝は「霊」と「真理」によるのだ、とイエスさまは教えられます。「だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(二四節)と。これがまことの礼拝、本当の神との向き合い方だと言うのです。「霊と真理をもって」と言われている「霊」とは、「神は霊である」(二四節)とある通り、人間の霊ではなく神の霊(聖霊)です。聖書は私たちに告げています。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」(Ⅰコリント一二章三節)と。つまりここで霊とは私たちに信仰を与えてくれる神の力です。そして続く「真理」はというと、これはもう、ヨハネ福音書を読み進めれば、明らかです。イエスさま自身が「わたしは道であり、真理であり、命である」(一四章六節)と言っておられます。「真理」とは、イエスさまの十字架と復活によって私たちがゆるされ(神に受け入れられ)救われることです。ですから「霊と真理をもって父を礼拝する」というのはただ神の愛によって、主イエスの十字架のゆるしによって迎え入れてもらうことに他なりません。そこには私たちの力というものがありません。あるのはただ私たちの信仰です。そしてそれさえも神によって与えられたものなのです。

まことの礼拝とは、民族の正当性や社会人としての評価、清い行い、熱心な修行をもってなされるものではありません。むしろ私たちがたくさん持っている(抱えている)諸々のものを手放して、ただ神の霊と神の真理によって礼拝するのです。私たちの持つ、あんな顔やこんな仮面すべてを脱ぎ去ることこそ、まことの礼拝、本当に神さまと向き合うときに求められています。そして「今がその時」だとイエスさまは言うのです。

○新しい命へ

私たちは人には見せることのできない醜さや弱さ、また悲しさや怒りなどを抱えつつ、しかしそれらを見せるわけにはいかないと仮面の裏にひた隠しにしているかもしれません。けれども、それらをひた隠すために、さらに「私はクリスチャン」という仮面をつけて、神さまの前に、この礼拝に招かれるのではありません。神さまの前に進み出るときに仮面は要りません。神さまの御前は、すべての仮面や鎧を脱ぎ捨て、自分がありのままの姿となるところです。イエスさまは私たちがいろいろなもので隠そうとする「ありのままの姿」を愛し、受け入れてくださる方だからです。そのためにイエス・キリストは私たちのすべてを受け止めて十字架にかかってくださったのです。ここに私たちの喜びがあり、慰めがあり、希望があります。ビクビクしながら水を汲みに来たサマリアの女性のように怯えている必要はありません。たとえ「この私の心はあまりに罪深くて見せられない」と嘆くときにも神は受け入れてくださっているからです。むしろこの神の憐れみを拒み、背を向け、隠しつづけることこそ、神さまに対する欺きとなるでしょう。

すべてをありのままに受け入れてくださるイエスさまの大きな愛の中に自分が受け入れられていることを知るとき、そこに新しい命が始まります。サマリアの女性がその素顔、ありのままの自分をイエスさまの前に表わしたときに、彼女の生活、命そのものが大きく変えられていったように。私たちも自分の素顔、ありのままの自分を神さまの御前に表していくとき、私たちの生活、命そのものが変えられていきます。

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(一四節)。

このわたし、魂の渇きを覚えるこのわたしという貧しい器をありのままに主の御前に差し出して、まことのいのちの水を豊かに注いでいただきましょう。その水はまた、このわたしの内で泉となって、永遠の命に至る水がわき出ると言われます。このわたし自身が神さまの救いを人々に分かち合うことのできる豊かないのちの泉、主の救いの源泉とされるのです。

祈りましょう。

天におられる父よ、あなたは常に憐れみのうちに私たちを招いてくださいます。あなたのみ言葉から迷い出てしまうことのある私たちをみもとに伴い、信仰においてふたたびあなたの真理を受け入れ、堅く保つように導いてください。神さま、あなたのみ子は、あなたからの恵み、わたしたちをまことに生かす命の水となってくださいました。そして今も、み子のうちにあふれた水(命)は人々を潤しています。どうぞ、その恵み、生ける命の水にわたしたちも豊かにあずからせてください。そして、さらにあなたの恵みにあずかるわたしたち自身が、あなたの恵みの源泉となって、わたしたちの隣人を潤していくものとされますように、あなたの御業を信じてあなたの御心を行なう者としてください。尊き主のみ名によって祈ります。アーメン。


 

 

 

 

作成者: 竹の塚ルーテル教会

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